【入来探索】入来院氏が祀っていた妙見神社と弥陀三尊塔について解説。

こんにちは。入来の歴史を勉強中のスーグル(@vsoogle)です。

入来という場所は歴史が深い町。地道に探索して紹介していきたいと思う。

今回は妙見神社と弥陀三尊塔だ。

妙見神社

入来麓武家屋敷群から北西に行くと妙見神社が鎮座している。

道路のカーブにあり、わかりにくい場所にある。一度見かけてずっと気になっていた場所だ。

階段を登ると社殿が見えてくる。

この神社には狛犬はいない。代わりに石塔みたいなものが左右にあった。

手水鉢も置いてある。

妙見神社の社殿は小さい。

しめ縄がはずれてる。

社殿の真ん中に賽銭箱。堂々と置かれていてなんかかっこいい。南華山って方の書なのかな。

妙見神社の鳥居にはしめ縄が。

扁額に「妙見神社 昭和五十四年 六月」とある。鳥居は再建したのかな。味気ない扁額だ。

入来の妙見神社

渋谷氏の祖先は武蔵国秩父地方にいた豪族だったと言われていますが、その秩父路歳に渋谷氏が氏神として信仰したのは秩父妙見宮、すなわち今の秩父市の秩父神社でした。

渋谷氏の妙見信仰は特に厚く、入来院地頭職に補佐されてからもまもなく元村に右の妙見宮を勧請して「妙見大菩薩」として祀りました。

その神社の隣には別当寺の定永寺を建てて妙見社同様にとてもだいじにしました。

出典:入来町の文化財

妙見菩薩(みょうけんぼさつ)は、仏教における信仰対象である天部の一つ。妙見尊星王(みょうけんそんしょうおう)、北辰(ほくしん)妙見菩薩とも呼ばれる。

MAP:妙見神社

妙見段の弥陀三尊塔

妙見神社に続く階段の横に、なんか気になるものがある。

妙見段の弥陀三尊塔(みださんぞんとう)。

寛保元年(1741年)に建立されたもの。寛保元年は徳川吉宗が江戸幕府の将軍の時代。

出典:https://matome.naver.jp/odai/2144120450902582101

暴れん坊将軍だ。

徳川吉宗と同じ時代のものに出会えたことに少し感動。笑

弥陀三尊

弥陀三尊は阿弥陀三尊と言うのがメジャーみたい。

阿弥陀三尊(あみださんぞん)は、仏教における仏像安置形式の一つである。

阿弥陀如来を中尊とし、その左右に左脇侍の観音菩薩と、右脇侍の勢至菩薩を配する三尊形式である。根拠は『無量寿経』・『観無量寿経』である。

観音菩薩は阿弥陀如来の「慈悲」をあらわす化身とされ、勢至菩薩は「智慧」をあらわす化身とされる。

脇侍の観音菩薩は、頭上の髻の正面に阿弥陀の化仏(けぶつ)を表し、勢至菩薩は同じ位置に水瓶を表すので、両脇侍は比較的区別がつけやすい。

日本では、東京国立博物館が収蔵する「銅造阿弥陀如来及両脇侍像(法隆寺献納)」(重要文化財、飛鳥時代)や、橘三千代の念持仏と伝えられる法隆寺の「銅造阿弥陀如来及両脇侍像(伝橘夫人念持仏)」(国宝、飛鳥時代、大宝蔵院収蔵)などが古い作例である。

出典:Wikipedia

三尊像ではなく、三尊塔。像ではないのか。

塔というのは元々仏教用語。江戸時代までは仏教の構造物のみを指してい おり、明治維新以降に西洋建築物のtowerの概念も含むようになったらしい。

なので石造の仏塔、仏舎利を安置するための供養塔という意味で三尊塔なのかも。

備えられているのは樒かな。入来のここらへんの地域の人がお供えしているのだろう。蔦が巻きついていて、遺跡にある仏像みたい。弥陀三尊像はボロボロに風化して来ているが、お供えされており、この地域の人に大切にされているのを感じた。

MAP:妙見段の弥陀三尊塔

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

ABOUTこの記事をかいた人

「埋もれた歴史を発掘・発信」をテーマに薩摩の地でイベント企画や商品開発、情報発信をしていました。( 山城の観光記念符「城郭符」や、歴史和菓子「雪窓院」を企画など)