博多に人魚がいた?――龍宮寺に残る「人魚の骨」と伝説

福岡の妖怪や怪異について調べていると、ときどき現在の街並みからは想像できないような話に出会います。

今回気になったのが、博多区冷泉町にある龍宮寺。地下鉄祇園駅のすぐそば、ホテルやビルが並ぶ博多の街中にあるお寺です。

しかし、なぜ博多のお寺に「龍宮」という名前が付いているのでしょうか。

調べてみると、約800年前の鎌倉時代、博多の海に「人魚」が現れたという不思議な伝説にたどり着きました。しかも龍宮寺には、人魚を供養した「人魚塚」だけでなく、「人魚の骨」と「人魚図」まで伝わっています。

博多に、本当に人魚がいたのでしょうか。龍宮寺に残された伝承と資料を追ってみます。

龍宮寺は、もともと海辺のお寺だった

現在の龍宮寺は、福岡市博多区冷泉町にある浄土宗鎮西派のお寺です。

今では完全に博多の街中ですが、福岡市の文化財情報によると、もともとは「袖の湊」の海辺にありました。寺の中まで潮が入ってきたことから、「浮御堂(うきみどう)」と呼ばれていたと伝わっています。

現在の祇園周辺を歩いていると、ここが海に近い場所だったとはなかなか想像できません。

しかし中世の龍宮寺の前には入海が広がり、室町時代の連歌師・飯尾宗祇も『筑紫道記』のなかで、寺の前に海が広がり、志賀島や沖の船を望めた様子を記しています。

その入海は江戸時代初頭までに埋め立てられ、龍宮寺も慶長5年(1600)に現在地へ移転しました。

つまり、人魚伝説が生まれたとされる頃の龍宮寺は、本当に海とすぐ隣り合わせのお寺だったことになります。

1222年、博多の海に人魚が現れた

時代は鎌倉時代。

貞応元年(1222)、龍宮寺に伝わる寺伝では、博多の海に人魚が現れたとされています。

福岡市の文化財情報によると、この人魚は「国家長久の瑞兆」と占われ、寺内に埋葬されました。そして、それまで浮御堂と呼ばれていた寺は「龍宮寺」と名を改めたと伝えられています。

人魚というと、現在では西洋のマーメイドのような姿を想像するかもしれません。あるいは、妖怪や怪物のような不気味な存在を思い浮かべる人もいるでしょう。

しかし龍宮寺の伝説で興味深いのは、人魚が災いをもたらす怪物ではなく、国の繁栄を知らせる吉兆として受け止められていることです。

怪異だから恐れる。それだけではなかったようです。

人魚塚、そして「人魚の骨」

龍宮寺の境内には、現在も「人魚塚」があります。

博多の街中に「人魚塚」という名前の石碑が残っている。それだけでも不思議ですが、龍宮寺にはさらに、「人魚の骨」とされるものが寺宝として伝わっています。

ただし、この骨を「1222年に現れた人魚の骨」とそのまま考えるのは少し早そうです。

福岡市博物館が紹介する江戸時代後期の地誌『筑前国続風土記拾遺』には、安永年間(1772〜1781)に龍宮寺の境内から「あやしい枯骨」が掘り出されたという記録があります。

福岡市博物館は、これが現在龍宮寺に伝わる「人魚の骨」を指しているのではないかとしています。

つまり、1222年に人魚が現れたという寺伝があり、その数百年後に境内から謎の骨が見つかり、それが「人魚の骨」として伝わるようになった可能性があります。

ここが、この伝説の面白いところだと思います。

最初から完成した「人魚伝説」が800年間そのまま残ったのではなく、古くからあった伝説に、後の時代の骨や絵、信仰が重なりながら、現在知られている物語が形づくられていったのかもしれません。

「人魚の骨」は長寿の力を持つと考えられた

この「人魚の骨」は、単に珍しいものとして保存されていたわけでもありません。

日本には、人魚の肉を食べると長寿を得られるという伝承があります。人魚の肉を食べた女性が800歳まで生きたとされる「八百比丘尼」の話は、その代表的なものです。

福岡市博物館によると、龍宮寺でもかつて、水を張った盥に人魚の骨を入れ、その水を長寿を願う人々に振る舞っていたとされています。

現在の感覚からすると不思議ですが、当時の人にとって人魚は、単なる珍しい生き物ではありませんでした。人知を超えた力を持ち、その力にあやかることのできる存在として受け止められていたのでしょう。

福岡市博物館は、鬼や龍、人魚などの角・牙・骨・ミイラが各地の寺社に伝えられ、その力にあやかろうとする信仰を集めたことも紹介しています。

怪異を恐れるだけでなく、供養し、ときにはその力を借りようとする。

龍宮寺の人魚には、昔の人と怪異とのそんな距離感も見えてきます。

その人魚は、全長約147メートルだった?

龍宮寺には「人魚の骨」とともに、「人魚図」という掛軸も伝わっています。

福岡市博物館によると、この人魚図は、もとは永禄年間(1558〜1570)ごろに制作されたとみられています。その詞書には、貞応元年(1222)4月14日に「龍宮界」から人魚が現れたことが記されていました。

そして驚くのが、その大きさです。

81間。1間を6尺として計算すると、約147メートル。

福岡市博物館の解説でも「約150m」と紹介されています。

もはや、私たちが「人魚姫」という言葉から想像する大きさではありません。

もちろん、これは1222年に147メートルの生物を実際に測定したという記録ではありません。人魚図が作られたとみられるのは、人魚が現れたとされる時代から300年以上後です。

では、なぜ博多の人魚は、これほど巨大な姿になったのでしょうか。

巨大人魚と、博多の「長橋」

ここで登場するのが、中世の博多にあったとされる「長橋」です。

龍宮寺の人魚図には、「長橋」は巨大な人魚の魚体であり、長橋がなくなれば博多も衰え、橋があれば博多は富み栄えるという趣旨の内容が記されています。

福岡市博物館は、この人魚図が「長橋」の存在を背景に生まれ、人魚伝説と結びついたものではないかとみています。

ここまで来ると、1222年の人魚伝説だけを見ていては分からなかったものが見えてきます。

人魚の伝説があり、中世博多の長橋があり、龍宮寺という寺がある。そこへ後世に描かれた人魚図や、人魚のものと考えられた骨が加わっていく。

それぞれ別の時代の要素が重なりながら、「博多に現れた巨大な人魚」という物語が形づくられていったのかもしれません。

伝説とは、ただ昔の話が保存されるものではなく、語られ、描かれ、土地の記憶と結びつきながら姿を変えていくものでもあるのでしょう。

博多に、本当に人魚はいたのか?

では、1222年の博多に本当に人魚がいたのでしょうか。

現在残る資料から、それを証明することはできません。龍宮寺に伝わる骨についても、未知の「人魚」という生物の骨だと科学的に確認されているわけではありません。

でも、この伝説を「人魚なんていないから作り話」で終わらせてしまうのも、少しもったいない気がします。

むしろ気になるのは、なぜ博多で人魚が語られ、その話が何百年も残ったのかということです。

海辺にあった浮御堂。1222年の人魚伝説。中世博多の長橋。後世に描かれた巨大な人魚図。江戸時代に掘り出された謎の骨。そして、不老長寿を願う信仰。

それらを一つずつ追っていくと、龍宮寺の人魚は「実在したかどうか」だけでは捉えきれない存在に見えてきます。

少なくとも、博多の人々が人魚を語り、描き、信仰してきた歴史は確かに残っているのです。

人魚伝説の龍宮寺から、東長寺へ

龍宮寺を訪れるなら、すぐ近くにある東長寺にも立ち寄ってみたいところです。

東長寺は、空海(弘法大師)が開いたと伝えられる真言宗のお寺。境内には日本最大級の木造坐像として知られる福岡大仏をはじめ、五重塔や六角堂、黒田家墓所などがあります。福岡大仏の台座下にある「地獄極楽めぐり」も印象的です。

龍宮寺と東長寺は、どちらも地下鉄祇園駅からすぐの場所にあります。

巨大な人魚の伝説が残る龍宮寺と、巨大な福岡大仏が鎮座する東長寺。方向性はまったく違いますが、歩いてすぐの範囲にこれだけ濃い歴史が集まっているのも、博多旧市街の面白いところです。

→ 東長寺:空海の足跡と福岡大仏

まとめ|人魚は、博多の歴史の中に残っている

「博多に人魚がいた?」

そんな疑問から龍宮寺について調べてみると、一つの人魚伝説の背後に、海辺だった博多の地形、中世の長橋、後世に描かれた人魚図、謎の骨、そして不老長寿を願う信仰が重なっていることが分かりました。

本当に人魚がいたのかは分かりません。

それでも「博多には人魚がいた」という物語が何百年も語られ、絵や骨、寺の名前と結びつきながら現在まで残ってきたことは、とても興味深いところです。

今ではビルに囲まれた龍宮寺。その場所がかつて海に近かったことを想像しながら歩いてみると、現在の博多の街が少し違って見えてきます。

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参考文献・参考資料

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