古代ローマにも幽霊はいた? 2000年前の怪談を調べる

古代ローマと聞くと、コロッセオ、剣闘士、皇帝、神殿といった光景を思い浮かべる人が多いでしょう。

では、そんな世界にも「幽霊」はいたのでしょうか。

もちろん、ここでいう「いた」とは、本当に幽霊が実在したかどうかという話ではありません。面白いのは、約2000年前の人々も、死者が生者の前に現れる物語を語り、その存在について真剣に考えていたことです。

古代の文献には、夜になると鎖の音が聞こえる屋敷、埋葬されないまま残された死者、そして真夜中に霊を家から送り出す奇妙な儀式まで登場します。

今回は古代ローマ時代の文献と考古学的な研究を手がかりに、2000年前の「幽霊」を追ってみます。

2000年前にも「幽霊は本当にいるのか?」と考えた人がいた

古代ローマに残された幽霊話の中でも、とくに興味深い資料があります。

ローマ帝国時代の政治家・文人、小プリニウス(Plinius Minor)が残した『書簡集』です。

1世紀末から2世紀初頭に生きたプリニウスは、友人スラに宛てた手紙の中で、幽霊には何らかの実体があるのか、それとも人間の恐怖や想像が作り出すものなのか、と問いかけています。

現代でも怪談の話をしていると、「幽霊って本当にいると思う?」という話になることがあります。2000年近く前にも、ほとんど同じ問いを考えている人がいたわけです。

興味深いのは、プリニウスが最初から「幽霊は存在する」と決めつけていないことです。自分が聞いた不思議な話をいくつか紹介しながら、友人に意見を求めています。

古代人が誰もが無条件に幽霊を信じていたわけではありません。信じることと疑うことの間で揺れていた。そのこと自体が、とても現代的に感じられます。

そして、この手紙に登場するのが、古代世界でも有名な「幽霊屋敷」の話です。

古代アテネにあった「幽霊屋敷」

物語の舞台はローマではなく、アテネです。

この記事で扱うのは「ローマ市に現れた幽霊」だけではなく、ローマ帝国時代の人々が知り、語り、記録した怪異です。当時のローマ世界はギリシア文化とも深く結びついていました。

プリニウスによると、アテネには大きな屋敷がありました。しかし、その家には悪い噂がありました。

夜になると、静寂の中から鉄の音が聞こえてくる。音は少しずつ近づき、やがて鎖を引きずる音へ変わります。

そして姿を現すのは、痩せ衰えた老人でした。長い髭と乱れた髪。手足には鎖と足枷がつけられています。

住人たちは怪異に悩まされ、やがて家を離れていきました。こうして屋敷は、誰も住みたがらない「幽霊屋敷」になってしまいます。

哲学者アテノドロスが、幽霊屋敷を借りる

そんな屋敷を訪れたのが、哲学者アテノドロスでした。

彼は貸家の値段が妙に安いことを不審に思い、事情を尋ねます。そこで幽霊の噂を知るのですが、避けるどころか、むしろ興味を持って家を借りました。

夜になると、アテノドロスは灯火を用意し、書き物を始めます。やがて鉄の音が聞こえ、鎖を引きずる音が近づいてきました。

それでも彼は書き続けます。

顔を上げると、そこには噂どおり、鎖につながれた老人が立っていました。幽霊は指でアテノドロスを招きますが、彼はすぐには立ち上がらず、「少し待て」とでもいうように手で合図し、再び書き物を続けたといいます。

古代の幽霊話なのに、妙に冷静です。

やがてアテノドロスは灯火を持ち、幽霊の後を追いました。老人は鎖を引きずりながら屋敷を進み、中庭のある場所まで来ると、突然姿を消します。

アテノドロスはその場所に目印を残し、翌日、役人たちに事情を説明して地面を掘らせました。

すると、鎖が絡みついた人骨が見つかります。

遺骨は集められ、正式に埋葬されました。そしてプリニウスによれば、それ以降、その屋敷に幽霊が現れることはなくなったといいます。

これは「幽霊退治」の話ではない

現代の感覚なら、「幽霊の正体を突き止めて退治した話」と読んでしまいそうです。

しかし、アテノドロスは幽霊と戦っていません。呪文を唱えたわけでもありません。

幽霊が示した場所から遺骨を発見し、死者を正しく葬った。すると怪異は終わりました。

この話の中心にあるのは、幽霊そのものよりも「葬られていない死者」なのかもしれません。

死者には、この世界に残らなければならない理由がある。その問題が解消されて初めて、死者は生者の世界から去っていく。

そう考えると、プリニウスの幽霊屋敷は単なるホラーではなく、生者と死者の秩序を回復する物語としても読めます。

プリニウスより300年ほど前にも「幽霊屋敷」があった

興味深いことに、幽霊屋敷のモチーフはプリニウスよりも前に登場しています。

共和政ローマ期の喜劇作家プラウトゥスの『モステッラリア(Mostellaria)』です。日本語では『幽霊屋敷』などと訳されることがあります。

こちらは怪談ではなくコメディです。

主人の留守中に遊び回っていた息子たちは、突然主人が帰ってきたことで困ってしまいます。そこで奴隷トラニオが、主人を家へ入れないために「この家には幽霊が出る」と嘘をつきます。

その作り話では、かつてこの家で客人が殺され、金を奪われたうえ、遺体を家の中へ埋められています。正式な葬儀も行われず、その死者が夢に現れて「私は殺され、葬られないままここにいる」と訴えるのです。

もちろん劇中ではすべて嘘です。しかし、だからこそ興味深いともいえます。

少なくとも、「非業の死を遂げ、正しく葬られなかった者が家にとどまる」という物語が、観客に理解できる怪異のモチーフとして成立していたことが分かります。

ただし、プラウトゥスのローマ喜劇はギリシア新喜劇を翻案して成立したジャンルでもあります。そのため、この作品だけから「ローマ固有の幽霊観」と考えるのは慎重であるべきでしょう。

それでも、

殺された死者 → 正しく葬られていない → 家にとどまる

という構造が、後のプリニウスの幽霊屋敷とよく似ているのは興味深いところです。

古代ローマの「幽霊」は一種類ではない

ここまで「幽霊」という言葉を使ってきましたが、古代ローマの死者の霊を、日本語の「幽霊」という一語にそのまま置き換えることはできません。

ローマでは、死者の霊について複数の言葉や概念が使われていました。

代表的なのがManes(マネス/ディ・マネス)です。

ローマ時代の墓碑には、しばしば「D.M.」という文字が刻まれています。これはDis Manibusの略で、「死者の霊に」といった意味を持つ定型的な表現です。

ローマ社会では、死者はただ消滅した存在ではありませんでした。墓を持ち、祭祀の対象となり、生者との関係を保ち続けます。

ただし、これをそのまま「ローマ人は幽霊を信じていた証拠」と考えることはできません。死者を祭祀することと、夜になると亡霊が現れると考えることは別の問題だからです。

一方、より危険な死者の霊として語られるのがlemures(レムレス)です。

古代ローマには、このレムレスと関係するLemuria(レムリア)という行事がありました。

真夜中、黒い豆を後ろへ投げる「レムリア」

レムリアについて詳しく記しているのが、ローマの詩人オウィディウスの『祭暦(Fasti)』です。

5月9日、11日、13日。真夜中、人々が眠り、周囲が静かになったころに家長が起きます。

手を清めたあと、家長は黒い豆を手に取り、後ろを振り返らないまま背後へ投げます。その際、自分と家族をこの豆によって贖うという趣旨の言葉を唱え、同じことを9回繰り返します。

背後では、死者の影が豆を拾っていると考えられていました。

その後、家長は再び水に触れ、青銅を打ち鳴らしながら、祖先の霊に家から出ていくよう求める言葉を9回唱えます。そこでようやく後ろを振り返り、儀式は終わります。

真夜中に黒い豆を投げる。背後にいる死者を見てはいけない。最後に金属を鳴らして送り出す。

2000年前の宗教儀礼ですが、現代の怪談に登場しても違和感がないほど不思議な光景です。

「マネス=善、レムレス=悪」と単純には分けられない

古代ローマの死者について調べると、「Manesは善い祖先霊」「Lemuresは悪い幽霊」と整理されていることがあります。

確かに分かりやすい分類ですが、古代の死者観はそこまで単純ではありません。

レムリアでは危険な霊を家から送り出そうとしますが、Manesなど他の死者の霊との境界が、常に明確だったわけではありません。

ローマ人にとって死者は、大切に祀るべき存在である一方、生者と死者の秩序から外れれば危険な存在にもなり得たのでしょう。

ここで、プリニウスの幽霊屋敷の意味も見えやすくなります。

問題なのは「死者が存在すること」そのものではありません。

死者が、本来いるべき場所にいないこと。

それが怪異につながっていたのかもしれません。

なぜ「葬られなかった死者」は戻ってくるのか

プリニウスの幽霊は、鎖につながれた遺骨が放置されたままになっていました。遺骨を見つけて正式に埋葬すると、幽霊は現れなくなります。

『モステッラリア』の幽霊話でも、殺された人物は葬儀を受けず、家の中へ埋められています。

古代ギリシア・ローマ世界では、若くして死んだ者、暴力的な死を遂げた者、正しく埋葬されなかった者などが、「落ち着かない死者」と結びつけて語られることがありました。

死者が、死者としてあるべき場所へ移ることができない。そのため、生者の世界との境界に残ってしまう。

そう考えると、プリニウスの幽霊屋敷は「幽霊を退治する物語」ではなく、死者を本来あるべき状態へ戻す物語と捉えることができます。

文学だけではない。「戻ってくる死者」を恐れた痕跡?

こうした恐怖は、文学だけに残されているわけではありません。

現在のトルコ南西部に位置する古代都市サガラッソスでは、2世紀頃の非常に特殊な火葬墓が発掘されています。

この墓では、火葬された遺骨がその場に残され、周囲には意図的に曲げられた数十本の釘が置かれていました。さらに火葬跡は24枚の煉瓦で覆われ、その上から石灰によって封じられていました。

通常の埋葬とは異なる処置です。

研究者たちは、こうした釘や煉瓦、石灰の組み合わせについて、死者から生者を守るための呪術的・防御的な意味を持っていた可能性を指摘しています。

もちろん、考古資料だけから当時の人々の心理を断定することはできません。

しかし研究では、釘によって死者をとどめ、煉瓦と石灰によって封じるという複数の行為を組み合わせて考えると、「落ち着かない死者」が戻ってくることへの恐れを示している可能性が高いとされています。

文学の中だけではなく、実際の墓にも「死者が戻ってくるかもしれない」という不安の痕跡が残っているのだとすれば、非常に興味深い事例です。

2000年前の怪談から見えてくる「戻ってくる死者」

ここまで見てきた古代の怪談には、ある共通した構造があります。

死者に何か未解決の問題がある
→ 死者が生者の世界へ現れる
→ 生者がその理由を知る
→ 埋葬や儀礼によって問題を解決する
→ 怪異が終わる

もちろん、すべての古代の幽霊話がこの形になるわけではありません。プリニウス自身も同じ手紙の中で、未来を予告する不思議な女性や、眠っている奴隷の髪が切られる奇妙な出来事を紹介しています。

それでも「戻ってくる死者」に注目すると、生者と死者の境界が崩れたときに怪異が起こるという発想が見えてきます。

怪談は単に「幽霊が怖い」という話ではなく、死者をどこへ置くのか、生者と死者の関係をどう保つのかという問題を語る物語でもあったのかもしれません。

古代ローマの幽霊は、日本の幽霊と似ている?

ここまで調べていると、日本の怪談を思い出します。

非業の死を遂げた者が現れる。遺体や墓に問題がある。死者が何かを訴え、正しく弔うことで怪異がおさまる。

どこか、日本の幽霊や怨霊の物語にも似ています。

ただし、「古代ローマの幽霊と日本の幽霊は同じだった」と単純に結論づけることはできません。

古代ローマには、古代ローマの死後世界や墓、祖先祭祀、宗教観があります。日本でも、神道や仏教、祖霊信仰などが重なりながら独自の死者観が形成されてきました。

似た物語があったとしても、その背景まで同じとは限りません。

むしろ気になるのは、異なる時代、異なる文化の人々が、なぜ似たような「戻ってくる死者」の物語を生み出したのかということです。

おわりに|怪談の向こうに見える「死者との付き合い方」

古代ローマ世界にも、幽霊の話はありました。

夜の屋敷に現れる、鎖につながれた老人。葬られないまま家に残った死者。真夜中に黒い豆を投げ、霊を家から送り出す儀式。そして、「幽霊は本当に存在するのか」と考えたプリニウス。

2000年近く前の世界なのに、どこか現代の怪談と変わらないようにも見えます。

しかし調べていくと、怪談の奥には単なる「怖さ」とは違うものがありました。

それは、死者をどう扱うのか。生者と死者の境界をどう保つのか。という問題です。

プリニウスの幽霊は、倒されて消えたのではありません。遺骨が発見され、正しく葬られたことで姿を消しました。

そう考えると、幽霊とは時として、「まだ死者になりきれていない存在」なのかもしれません。

古代ローマと日本。時代も場所も大きく異なる二つの文化で、「死者が戻ってくる」という物語はどのように似て、どのように違うのでしょうか。

このあたりは、また改めて調べてみたいと思います。

参考文献・参考資料

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 ※ が付いている欄は必須項目です