妖怪には、もともと名前も姿もなかった?|日本人が「見えないもの」に形を与えるまで【見えないものの文化史①】

「見えないものの文化史」シリーズ
人は、目に見えないものをどのように理解してきたのでしょうか。
妖怪、物の怪、穢れ、疫病神、そして世界各地の怪異を手がかりに、正体の分からない「何か」が、どのように名前や意志、姿を与えられてきたのかを追うシリーズです。

「河童」と聞けば、頭に皿があり、水辺に棲む姿を思い浮かべる。「鬼」と聞けば角や牙。「天狗」と聞けば、赤い顔と長い鼻。私たちは妖怪について、当たり前のように「名前」と「姿」をセットで覚えています。

では、昔の人たちも同じだったのでしょうか。

調べてみると、どうもそうではありませんでした。昔の妖怪には、名前や行動について語られていても、決まった姿を持たないものがいる。一方で、古い妖怪画には、はっきりと姿が描かれているのに名前が分からないものも数多くいます。

どうやら「この名前の妖怪は、この姿をしている」という、現在では当たり前の組み合わせそのものが、長い時間をかけて作られてきたようなのです。

では、日本人はいつから、正体の分からない「何か」に名前を付け、姿を与えるようになったのでしょうか。今回は、妖怪が今のような「名前と姿を持つ存在」になるまでを追ってみます。

妖怪より先にあったのは、「何かが起きた」という怪異

まず考えてみたいのが、「怪異」と「妖怪」は同じものなのか、ということです。

たとえば、夜道を歩いていると突然、不思議な光が見えた。誰もいないはずの場所から音がした。原因の分からない病気が流行した。このとき、最初から「○○という妖怪の仕業だ」と考える必要はありません。まず存在するのは、「何か、おかしなことが起きた」という出来事です。

こうした通常ではない出来事を「怪異」と考えるなら、妖怪はその怪異を説明する方法の一つと言えます。

妖怪研究者の香川雅信氏は、近世以前の怪異について考えるうえで興味深い指摘をしています。中世までの社会には、怪異を凶兆として判定し、それに応じた対処を行う仕組みがあったというのです。

つまり、奇妙な火が現れたとき、「これは何という妖怪だろう?」と考えるより、「これは何を意味しているのだろう?」と考えることの方が重要だった場合がある。ここには、現在の妖怪図鑑とはまったく違う「怪異の見方」があります。

正体の分からない「もの」

では、その怪異の背後に何かがいると感じたとき、人々はそれを何と呼んだのでしょうか。

ここで気になるのが、「もの」という言葉です。

國學院大學の『Encyclopedia of Shinto』では、「もの」は古くから霊的な存在を表す言葉であり、もともとは恐れや畏怖の対象を直接名指しすることをためらったときの抽象的な表現だったとする説が紹介されています。「もののけ」という言葉の「もの」も、その一例です。

これはとても興味深い。「河童がいる」でも、「鬼がいる」でもない。ただ、「何か」がいる。まだ名前も、輪郭もはっきりしていない存在です。

「妖怪になる前の何か」を考えるとき、この「もの」という言葉はかなり重要そうです。これについては、別の記事で改めて詳しく調べてみたいと思います。

「何か」から「誰か」へ

正体不明の「何か」に、さらに一歩進んだ説明が与えられることもあります。それは、「誰かが、この災いを起こしている」という考え方です。

分かりやすい例が、平安時代の御霊信仰です。

『日本三代実録』には、貞観5年(863年)、京都の神泉苑で御霊会が行われたことが記されています。そこでは崇道天皇(早良親王)など、非業の死を遂げた人々の霊が祀られました。当時頻発していた疫病や多数の死について、人々は御霊によってもたらされた災いだと考えていたことも記されています。

ここでは、「疫病が起きた」という現象だけではなく、「この霊が疫病を起こしている」という主体が生まれています。

ただし、ここで注意したいのは、「怪異→もの→御霊→妖怪」という一本の進化の道があったわけではないということです。

穢れのように最後まで「状態」に近いものもあれば、神や御霊のように、姿がなくても強い意志を持つ存在として理解されたものもある。鬼や天狗のように古くから名前を持つ存在もいます。

日本人は「見えないもの」を一つの方法で説明してきたのではなく、さまざまな捉え方を並行して使ってきたのでしょう。

名前はある。でも姿がない

ここからが、今回調べていて特に面白かったところです。

現在の妖怪図鑑では、妖怪の名前と絵はほぼ必ずセットになっています。ところが、国際日本文化研究センターの「怪異・妖怪画像データベース」は、かつてはそうではなかったと説明しています。

民間伝承の妖怪には、名称と出現・行動については語られているものの、具体的な姿が伝えられていないものがありました。つまり、「○○というものが現れる」「○○はこんなことをする」という話はあっても、「では、○○はどんな顔をしているのか?」については決まっていないことがあるのです。

考えてみれば、不思議なことです。

現在では河童や天狗のイラストを簡単に描けます。しかし、「語られている存在」と「絵として描かれている存在」は、本来別の文化だったのです。

姿はある。でも名前がない――百鬼夜行の世界

さらに面白いのが、その逆です。姿はあるのに、名前がない。代表的なのが『百鬼夜行絵巻』です。

百鬼夜行の絵巻には、道具や動物、異形のものなど、実にさまざまな怪物たちが列を作って進んでいきます。国立歴史民俗博物館でも『百鬼夜行絵巻』『百器夜行絵巻』の高精細画像が公開されています。

ところが、そこに描かれた一体一体について、「これは○○という妖怪である」と説明されているわけではありません。日文研も、近世以前の妖怪画には姿だけが描かれ、どのような名称の妖怪なのか説明されていないものが多いとしています。

現代の感覚では、つい聞きたくなります。「この妖怪、何ていう名前?」でも、そもそも名前がない。

ここには、身体はあるのに、名前がない妖怪たちがいるのです。「妖怪には当然名前がある」という感覚そのものが、昔から当たり前だったわけではないことが分かります。

17世紀、「妖怪に名前を付ける」時代へ

では、いつから現在のように、多種多様な妖怪の名前が登場するのでしょうか。

一つの大きな転換点が、17世紀です。

香川雅信氏の論文「鬼魅の名は―近世前期における妖怪の名づけ―」によると、江戸時代以前には「鬼」や「天狗」といった限られた怪異の主体は想定されていたものの、現在のように個別の怪異へ次々と名前が付けられていたわけではありません。

その状況が変化するのが17世紀。特に寛永年間(1624~1644年)以降、妖怪の名称が急速に増えていきます。

つまり、日本の妖怪史には、「名づけの時代」と呼びたくなるような時期があったのです。

なぜ妖怪に名前を付け始めたのか

ここで、さらに不思議な疑問が出てきます。

なぜ17世紀になると、人々は怪異に名前を付け始めたのでしょうか。

香川氏が提示している重要な考え方が、「怪異の日常化」です。

中世までの怪異には、凶兆として重大な意味を持つものがありました。奇妙な現象が起きれば、「何か悪いことが起こるのではないか」と考え、その意味を読み取り、対処する必要があった。

ところが江戸時代になると、そのような怪異を判定し対処する中世的なシステムが十分に機能しなくなっていきます。すると怪異は、何か重大な出来事を知らせる「徴」から、そこに存在する奇妙な「モノ」へと変わっていったのではないか、と香川氏は論じています。

この変化は面白い。

妖怪は「怖くなったから名前を付けられた」のではなく、逆に、怪異が少し身近になったからこそ、名前を付けて眺めたり、語ったりできるものになった可能性があるのです。

さらに17世紀には、妖怪の名前が俳諧の題材として使われるようになります。

香川氏は、怪談集『古今百物語評判』が俳人によって生み出されたことや、「姥が火」という妖怪の成立に俳諧のネットワークが関わったことなどから、妖怪の「名づけ」と俳諧文化の関係を指摘しています。

怪異が、恐れるだけの対象から、語り、名づけ、楽しむ対象にもなっていった。妖怪文化の大きな転換だったのかもしれません。

1776年、鳥山石燕『画図百鬼夜行』

そして18世紀。現在の妖怪図鑑につながる重要な人物が登場します。

鳥山石燕です。

石燕は安永5年(1776年)に『画図百鬼夜行』を刊行。その後も『今昔画図続百鬼』『今昔百鬼拾遺』『百鬼徒然袋』と、妖怪を集めたシリーズを刊行しました。

もちろん、石燕が妖怪そのものを発明したわけではありません。石燕以前にも、怪異の伝承も妖怪画も存在しています。

重要なのは、日文研が指摘するように、それまで別々に存在していた民間伝承における「名称と行動」と、絵画における「姿」を、石燕ら江戸時代の妖怪絵師たちが結びつけていったことです。

ここで、名前+姿+説明という、現在の妖怪図鑑に近い形ができていきます。

名前と姿を持つと、妖怪は何が変わるのか

これは単に、妖怪が分かりやすくなったというだけではないと思います。

まず、区別できるようになります。

「奇妙な火が見えた」だけなら一つの不可思議な現象ですが、「姥が火」「狐火」など名前が付けば、それぞれ別のものとして扱える。

次に、共有できるようになります。

「あそこで見た変なもの」ではなく、「○○という妖怪」と呼べば、見たことのない人にも同じ対象について話せるようになります。

さらに、集められるようになります。

一つ一つに名前と姿があれば、それらを並べ、分類し、一冊の本にすることができる。

そして最後に、物語の中で再利用できるようになります。

絵に描く。物語に登場させる。別の絵師が描き直す。

こうして妖怪は、ある土地の不可思議な出来事から切り離され、別の場所、別の時代でも使える存在になっていきます。「怪異」が、少しずつ「キャラクター」に近づいていく過程とも言えそうです。

では、妖怪はいつ生まれたのか

ここまで調べてみると、「妖怪はいつ誕生したのか?」という問いには、一つの年代では答えられないことが分かります。

古くから、不可解な現象や霊的な存在についての認識がありました。鬼や天狗のように、早くから名前を持つ存在もいました。

中世から近世にかけて、絵巻にはさまざまな異形が描かれます。しかし、そこには名前を持たないものも多くいました。

17世紀になると、個々の怪異への「名づけ」が急増する。そして18世紀、鳥山石燕らの妖怪絵師によって、伝承の名前と絵画の姿が強く結びついていく。

つまり、妖怪はある日突然「発明」されたのではありません。

「怪異を語る文化」と、「異形を描く文化」。そして「怪異に名前を付ける文化」。それぞれ別々に流れていたものが、長い時間をかけて合流していった結果、現在私たちが考える「妖怪」の姿が作られていったのでしょう。

「何か」が「妖怪」になるまで

夜道で、不思議な音がする。最初にあるのは、それだけだったのかもしれません。

そこに何かがいると考える。何かがこの現象を起こしていると考える。姿を描く。名前を付ける。そしていつしか、「○○という妖怪がいる」と語ることができるようになる。

もちろん、実際の歴史はこの順番で一直線に進んだわけではありません。名前が先に生まれた存在もいれば、姿だけが先に描かれた異形もいました。

むしろ面白いのは、そこです。

妖怪の「名前」と「姿」は、最初から一つではなかった。名前と姿という別々の流れが、長い時間をかけて結びついた。そして、その結びつきが強くなるほど、正体の分からない「何か」は、私たちが知る「妖怪」へと近づいていったのかもしれません。

では、そもそも名前すら付いていなかった頃、日本人は正体の分からない「何か」を、どのように捉えていたのでしょうか。

次は、古くから使われてきた不思議な言葉――「もの」について、もう少し深く調べてみたいと思います。

シリーズ記事一覧

「見えないものの文化史」では、人間が正体の分からないものに、どのように名前・意志・姿を与えてきたのかを追っています。

参考文献・参考資料

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