なぜ「穢れ」には顔がないのに、「疫病神」には顔があるのか|見えない災いが“誰か”になるまで【見えないものの文化史③】

「見えないものの文化史」シリーズ
人は、目に見えないものをどのように理解してきたのでしょうか。
妖怪、物の怪、穢れ、疫病神、そして世界各地の怪異を手がかりに、正体の分からない「何か」が、どのように名前や意志、姿を与えられてきたのかを追うシリーズです。

これまで、「妖怪の名前と姿は最初からセットだったのか」「妖怪になる前の“名前のない何か”とは何だったのか」を調べてきました。

そこで、もう一つ気になることがあります。人間は、すべての「見えないもの」に名前や姿を与えてきたわけではありません。

たとえば、穢れ(けがれ)。

死や病気などと関係し、人や場所に及ぶと考えられてきた目には見えないものです。しかし、「穢れ」という怪物がどこかから歩いてくるわけではありません。穢れが怒ったり、人間に話しかけたりするわけでもない。

一方、病気や疫病は、ときに疫病神という「誰か」として捉えられてきました。疫病神は外からやって来る。家に入る。病気をもたらす。そして伝承の中では、追い払われたり、祀られたり、ときには人間と約束まで交わしたりします。

どちらも「見えない災い」に関わるものです。それなのに、なぜ一方は「状態」のままで、もう一方には意志や姿が与えられたのでしょうか。

今回は、なぜ見えないものの中には「誰か」になるものと、ならないものがあるのかを考えてみます。

「穢れ」とは、そもそも何なのか

まず、穢れから見てみます。

國學院大學の『Encyclopedia of Shinto』では、穢れは清浄の反対にある汚れた、あるいは不浄な状態として説明されています。「罪」が人間の行為によって生じるものと考えられたのに対し、穢れは自然に生じる現象によって起こるものとされました。穢れが人に付着すると、個人だけでなく社会にも災いをもたらすと考えられ、禊や祓によって清められました。

歴史的には、人や家畜の死、出産、月経、肉食、病気などが穢れの原因として扱われた時代があります。これは当時の宗教的・社会的な観念についての話であり、それらを現代の価値観から「不浄」と評価するという意味ではありません。

ここで重要なのは、穢れが基本的に「誰か」ではないということです。

「穢れがやって来た」というより、「穢れた状態になった」と表現する方が近い。人間や場所が、通常あるべき清浄な状態から外れてしまった。その変化を説明する概念です。

つまり、今回の記事ではひとまず、

穢れ=状態を説明するモデル

と考えてみます。

穢れは、倒すのではなく「元に戻す」

穢れが「状態」だと考えると、それに対する対処法も分かりやすくなります。

穢れを捕まえたり、説得したり、倒したりする必要はありません。行われるのは、禊や祓、一定期間の忌みなどです。

國學院大學の解説では、禊は身体に付着した罪や穢れなどを水によって清める行為とされています。その神話的な起源として、『古事記』『日本書紀』でイザナギが黄泉の国から戻った後、黄泉の穢れを落とすために禊を行う話が挙げられます。

つまり構造としては、

清浄な状態 → 穢れる → 清める → 元の状態へ戻る

となります。

ここで面白いのは、穢れが「敵」として扱われていないことです。

穢れとは、戦って倒す相手ではなく、回復させるべき状態だったと考えることができます。

一方、疫病神は「外からやって来る」

では、疫病神はどうでしょうか。

国立歴史民俗博物館は、前近代の日本では、疫病について「鬼」に代表される恐ろしい存在が外界から集落や家へ訪れ、病気をもたらすと信じられていたことを紹介しています。

ここでは、穢れとはまったく違う構造が現れます。

疫病神は「状態」ではありません。

外にいる。やって来る。家や村に入る。病気をもたらす。

つまり、災いの背後に「行為者」がいます。

穢れが「どういう状態になったのか」を表すものだとすれば、疫病神は「誰がこれを起こしたのか」を説明する存在です。

比較すると、かなり違いが見えてきます。

穢れ疫病神
状態として捉える行為者として捉える
付着する・生じるやって来る・入ってくる
意志を必要としない意志を持つことができる
禊・祓で清める追い払う・祀る・防ぐ
「今どうなっている?」「誰がやった?」

同じ「見えない災い」でも、人間がそれを理解する方法が違うのです。

疫病神は、驚くほど「人間らしい」

疫病神について調べていると、かなり興味深い伝承に出会います。

国際日本文化研究センターの「怪異・妖怪伝承データベース」には、群馬県に残る「疫神の詫び証文」が収録されています。

そこでは、屋敷に入ってきた疫病神が、自分が入ったのは心得違いだったとして詫び、今後は決してその家に入らないと誓います。さらに、その証文を持っている家には疫病神が来ないとされた例もあります。

これがとても面白い。

穢れに、

「もうこの家には来ません」

と約束させることはできません。

しかし疫病神ならできます。

疫病神は家に入り、間違いを認め、謝罪し、約束する。まるで人間同士のやり取りのようです。

つまり、正体の分からない疫病という現象が、疫病神という存在になることで、「話の通じる相手」へ変わっているのです。

「誰か」にすると、できることが増える

ここに、見えないものが「誰か」になる大きな理由の一つがあるのかもしれません。

穢れを状態として捉えれば、できることは「避ける」「清める」「祓う」といったものになります。

しかし疫病の原因を「誰か」だと考えれば、その相手に対してさまざまな働きかけができます。追い払う。祀る。供物を捧げる。入ってこないようにする。交渉する。先ほどの伝承のように、約束までさせることができる。

現代から見れば奇妙に思えるかもしれません。しかし、原因も治療法も十分に分からない疫病が突然広がる世界で考えてみると、そこには一つの意味があります。

疫病という現象そのものとは、話ができません。しかし、疫病をもたらす「相手」がいるなら、その相手には働きかけることができる。

そう考えると、見えないものを人格化することには、

制御できないものを、「関係を結べる相手」に変える

という働きがあったのかもしれません。

もちろん、「疫病神という観念は、この心理だけから生まれた」と断定することはできません。既存の神霊観や祭祀、仏教・中国文化など、さまざまな要素が重なっています。ただ、「誰か」として捉えることで対処の方法が増える、という違いは注目してよさそうです。

「来るもの」は、「誰か」になりやすい?

もう一つ気になるのが、穢れと疫病神を語るときに使われる言葉の違いです。

穢れは、生じる、付く、清める。

疫病神は、来る、入る、去る。

前者は状態の変化を表す言葉です。一方、後者は誰かの行動を表す言葉に近い。

「誰かが来た」と考えれば、そこから自然に新しい問いが生まれます。

誰が来たのか。どこから来たのか。なぜ来たのか。何をすれば帰ってくれるのか。

こうした問いに答えようとすると、その存在には次第に、意志や性格、名前、姿といったものが加わっていきます。

つまり、

「来るもの」は、「誰か」になりやすい。

そんな傾向を考えることもできそうです。

疫病神の「顔」は、どこから来たのか

ただし、「疫病を恐れた結果、自然に疫病神の顔が生まれた」と考えるのも単純すぎます。

国立歴史民俗博物館によれば、前近代の人々は、人知の及ばない出来事を神霊の働きとして理解することがありました。そして、幸福をもたらす神霊が翁の姿で表現される一方、病苦や災害をもたらす神霊は、恐ろしい形相の鬼として表現されることが多かったとされています。ただし、その姿は地域や時代によって多様でした。

つまり、「疫病神」という存在に顔を与えるとき、人々はまったくゼロから新しい姿を作ったわけではありません。

すでに文化の中にあった、

鬼、悪鬼、恐ろしい神霊

といった「災いを表現するための姿」を借りることができたのです。

これは以前調べた、妖怪の「名前」と「姿」の問題にもつながります。

見えないものを可視化するとき、人間はしばしば、すでに知っている「怖い姿」を利用します。

ただし、「穢れには顔がない」と言い切るのも単純すぎる

ここで、一度タイトルそのものを疑ってみたいと思います。

「穢れには顔がない。疫病神には顔がある」

と書くと、非常に分かりやすい。しかし実際の日本の信仰は、それほど単純ではありません。

たとえば『延喜式』の大祓に関する記述では、人々の罪や穢れを祓い清め、それを外へ送り出していく儀礼が行われます。また、日本の神話・祭祀には、穢れそのものとは別に、祓いや清めに関係する神々も存在します。

つまり、

穢れそのものは状態として捉えながら、その穢れを処理する働きを神格化する

ことはできるのです。

逆に、疫病神にも常に一つの決まった顔があるわけではありません。鬼の姿を取る場合もあれば、人間のような存在として語られる場合もある。「何かが来る」という観念だけが強く、具体的な容姿が重要ではない伝承もあります。

したがって、今回の問いをもう少し正確に言い換えるなら、

なぜ「穢れ」という概念の中心には“状態”があり、「疫病神」という概念の中心には“行為者”がいるのか。

となります。

この違いを考えることが、本当のテーマです。

一つの病気を、二つの方法で説明することもできる

さらに興味深いのは、「穢れ」と「疫病神」が必ずしもどちらか一方しか使えない考え方ではないことです。

歴史的には、病気そのものが穢れの原因として扱われることがありました。

その一方で、

「疫病神が病気をもたらした」

と考えることもできる。

つまり、同じ病気について、

「なぜ起きたのか?」と問えば、

疫病神が来たから。

「今、その人や場所はどういう状態なのか?」と問えば、

穢れている。

と答えることができます。

ここまで考えると、穢れと疫病神は「同じ現象を別の名前で呼んだもの」ではないことが分かります。

そもそも、違う問いに答えるための考え方なのです。

穢れと疫病神は、「別の問い」に答えていた

改めて整理してみます。

穢れが答えているのは、

「いま、どういう状態なのか?」

という問いです。

通常とは違う。清浄ではない。だから、清める必要がある。

一方、疫病神が答えているのは、

「誰が、この災いを起こしたのか?」

という問いです。

疫病神がやって来た。だから、追い払う、祀る、侵入を防ぐ。

そう考えると、「なぜ穢れには顔がないのに、疫病神には顔があるのか」という最初の疑問にも、一つの答えが見えてきます。

穢れに顔がないのは、それがそもそも「誰なのか」を説明するための概念ではないからなのかもしれません。

逆に、疫病神に顔や人格が生まれるのは、災いの背後に「誰か」を置くことで、その災いを働きかけることのできる相手として理解できるからなのかもしれません。

見えないものに「顔」が生まれる前

これまでの記事では、妖怪の「名前」と「姿」、そして名前すら持たない「何か」について考えてきました。

今回、そこにもう一つ段階が見えてきました。

見えないものが突然、角や牙を持つわけではない。

その前に、

「何かがやっている」

という認識が生まれる。

そして、その「何か」に意志があると考える。

祀れば鎮まる。追い払えば帰る。話せば約束する。

この段階ですでに、姿がなくても「相手」になっています。

そこから名前や姿が与えられれば、さらに私たちが知る妖怪や神霊のような存在へ近づいていく。

つまり、見えないものに顔が生まれる前に、まず「行為者」が生まれるのかもしれません。

顔を与えるとは、「相手」を作ることなのか

原因の分からない病が広がる。

それを「穢れ」と考えれば、人や場所を清めるという方法があります。それを「疫病神が来た」と考えれば、その相手を追い払い、祀り、二度と来ないよう願うことができます。

同じ見えない災いでも、人間は一つの方法だけで理解してきたわけではありません。

状態として捉えることもあれば、「誰か」の仕業として捉えることもある。

そして、もしかすると見えないものに「顔を与える」ということは、単に姿を想像することではないのかもしれません。

顔を与えるとは、その「何か」を、こちらから働きかけることのできる「相手」に変えることなのではないでしょうか。

では、その「何か」は、どの段階で相手になり、名前を持ち、身体を持ち、さらには性格まで持つようになるのでしょうか。

次は、「見えないものは、どの段階まで“人になる”のか」を考えてみたいと思います。

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「見えないものの文化史」では、人間が正体の分からないものに、どのように名前・意志・姿を与えてきたのかを追っています。

参考文献・参考資料

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