古代ギリシャにも幽霊はいたのか?|『オデュッセイア』に描かれた死者の影

古代ギリシャと聞くと、何を思い浮かべるだろう。

ゼウスやアポロンといった神々。英雄ヘラクレス。アテネの神殿。あるいは、哲学者たちが議論を交わした世界。

では、そんな古代ギリシャにも「幽霊」はいたのだろうか。

もちろん、ここでいう「いた」とは、幽霊が本当に実在したかどうかという話ではない。

気になるのは、古代ギリシャの人々が「人は死んだあと、どうなるのか」「死者は生者と再び会うことがあるのか」といった問題を、どのように考えていたのかということだ。

その手がかりになるのが、古代ギリシャを代表する叙事詩『オデュッセイア』である。

この物語には、英雄オデュッセウスが死者たちと出会う、不思議な場面がある。

そこに現れる死者は、言葉を話す。

生前の記憶も残している。

しかし、触れることはできない。

まるで「影」のような存在として描かれている。

今回は『オデュッセイア』を手がかりに、古代ギリシャの人々が死者をどのような存在として捉えていたのかを調べてみたい。

オデュッセウスは、死者に会いに行った

『オデュッセイア』は、トロイア戦争を終えた英雄オデュッセウスが、故郷イタケーへ帰るまでの長い旅を描いた物語である。

しかし、その帰路は簡単ではない。

怪物や神々、魔女、海難など、さまざまな困難に遭遇する。

その旅の途中、オデュッセウスは魔女キルケーから奇妙なことを告げられる。

故郷へ帰る方法を知りたければ、死んだ予言者テイレシアスに会わなければならない。

つまり、生きたまま死者の世界へ向かう必要があるのだ。

キルケーはテイレシアスについて、死後も特別に知性を保っている存在だと説明する。

それ以外の死者たちは「影」のように飛び交っているという。

ここですでに、興味深い死者観が見えてくる。

死者は完全に消えてしまうわけではない。

何らかの形で存在し続けている。

しかし、生前とまったく同じ状態でもない。

オデュッセウスは、そんな死者たちとの境界へ向かうことになる。

血のもとへ集まってくる死者たち

キルケーはオデュッセウスに、死者と接触するための方法を教える。

地面に穴を掘り、蜂蜜と乳、葡萄酒、水などを供える。

さらに羊を犠牲にし、その血を穴へ流す。

すると、死者たちが集まってくる。

『オデュッセイア』第11歌には、花嫁、若者、老人、若くして亡くなった女性、戦場で殺された男たちなど、さまざまな死者が血の周囲へ集まる光景が描かれている。

現代の感覚で読むと、まるで降霊術のようにも見える。

ただし注意したいのは、『オデュッセイア』は文学作品であるということだ。

この描写だけから、「古代ギリシャ人は実際にこの方法で死者を呼び出していた」と結論づけることはできない。

それでも、死者は完全に失われた存在ではなく、一定の条件のもとで生者と接触し得るものとして想像されていた。

そのこと自体が面白い。

そして、オデュッセウスの前に最初に現れた死者が、とても重要な人物である。

最初に現れたのは「埋葬されていない死者」だった

死者たちが集まり始める。

その中から最初にオデュッセウスの前へ現れたのは、偉大な英雄でも、有名な王でもなかった。

仲間のエルペノールだった。

彼はキルケーの館で酒に酔い、屋根の上で眠ってしまう。

翌朝、目を覚ました彼は自分が屋根の上にいることを忘れ、そのまま転落して首を折って死んでしまった。

しかもオデュッセウスたちは出発を急いでいたため、彼の遺体を葬らないまま残してきていた。

エルペノールは死者となって現れ、オデュッセウスに頼む。

自分をそのままにしないでほしい。

遺体を焼き、墓を作り、生前使っていた櫂を墓標として立ててほしい。

オデュッセウスはその願いを聞き入れる。

ここで注目したいのは、

最初に現れた死者が「まだ葬られていない人物」だった

ということだ。

「葬られない死者」は、なぜ特別なのか

古代ギリシャでは、死者を正しく葬ることが非常に重要だった。

遺体を清め、弔い、墓へ送り、死者として扱う。

こうした葬送は単に遺体を処理するための行為ではない。

生者だった人間を、死者の側へ送り出すための過程でもあったと考えられる。

だからこそ、エルペノールのように葬られていない死者は特殊な状態にある。

肉体は死んでいる。

しかし、まだ正式には弔われていない。

生者でもない。

かといって、完全に死者の側へ移ったとも言い切れない。

古代ギリシャの死者研究で知られるSarah Iles Johnstonは、著書『Restless Dead』の中で、古代ギリシャにおける「落ち着かない死者」について詳しく論じている。

そこでは、埋葬されなかった死者だけでなく、若くして亡くなった者や、暴力によって命を奪われた者なども、生者に働きかける危険な死者になり得る存在として扱われている。

つまり、

「死んだ人間すべてが幽霊になる」のではない。

何らかの理由によって、生者と死者のあいだの境界から外れてしまった者が、特別な存在になっていく。

そう考えると、エルペノールの物語の見え方も少し変わってくる。

彼が求めているのは、生き返ることではない。

正しく「死者になること」なのかもしれない。

古代ギリシャの死者は「影」だった?

ここまで「幽霊」という言葉を使ってきた。

しかし、現代の日本語でいう「幽霊」という言葉を、そのまま古代ギリシャへ当てはめることには注意が必要だ。

ホメロスの作品では、死者について主にpsychē(プシュケー)という言葉が使われる。

現代では「魂」と訳されることが多い言葉だが、私たちが考える「心」や「精神」と完全に同じものではない。

『Oxford Classical Dictionary』によると、初期のギリシャ世界、とくにホメロスでは、psychēは人間の死とともに身体を離れ、冥界へ向かう存在として描かれる。

そして『オデュッセイア』では、死者を表す言葉としてskia(スキア=影)も使われている。

キルケーがオデュッセウスに死者の世界について説明するときも、死者たちは影のように飛び交う存在として描かれる。

後代になると、eidōlon(エイドーロン)など、死者や幻影を表す別の言葉も使われるようになる。

つまり、古代ギリシャの「幽霊」は一種類ではない。

私たちが「幽霊」とひとまとめにしているものの中に、死者の魂、影、幻影、危険な死者など、複数の概念が含まれている。

この点は、古代ローマの死者をManesやlemuresなど複数の概念から見たときとも似ている。

死者は、血を介して生者と話す

『オデュッセイア』第11歌でもう一つ印象的なのが、「血」である。

オデュッセウスは羊を犠牲にし、その血を死者たちの前へ流す。

予言者テイレシアスは血のもとへやって来て、オデュッセウスに故郷へ帰るための予言を伝える。

その後、オデュッセウスの母アンティクレイアも現れる。

オデュッセウスがトロイア戦争へ出発したとき、母はまだ生きていた。

そのため、死者の中に母を見つけたオデュッセウスは驚く。

彼女も血を飲んだあと、息子を認識し、言葉を交わす。

ここで「血には死者を復活させる力がある」と単純に結論づけることはできない。

実際、エルペノールは血を飲む前からオデュッセウスと会話している。

それでも、『オデュッセイア』の中で血が、生者と死者を接触させる重要な媒介として描かれていることは確かだろう。

生者の世界にある「生命」を思わせるものを介して、死者と言葉を交わす。

不思議だが、非常に印象的な場面である。

三度抱きしめても、母には触れられなかった

死者の世界で再会した母アンティクレイアに、オデュッセウスは故郷の様子を尋ねる。

父はどうしているのか。

息子テレマコスはどうしているのか。

妻ペネロペは自分を待っているのか。

そして話を終えたあと、オデュッセウスは母を抱きしめようとする。

しかし、抱くことができない。

三度試みる。

そのたびに母のpsychēは、夢や影のように腕の中からすり抜けていく。

オデュッセウスは母に尋ねる。

なぜ抱きしめることができないのか。

すると母は、死者とはこういうものなのだと説明する。

死ねば肉体を構成していたものは失われ、psychēは夢のように飛び去っていく。

ここには、『オデュッセイア』における死者の姿が非常に分かりやすく表れている。

見える。

話すこともできる。

記憶も残っている。

しかし、

触れることはできない。

私たちが「幽霊」と聞いて想像する姿にも、どこか似ている。

死者は、生前の人間そのものではない。

肉体を失った「影」のような存在なのである。

英雄アキレウスでさえ、死後の世界を喜んでいなかった

第11歌では、オデュッセウスはトロイア戦争最大の英雄アキレウスとも再会する。

オデュッセウスは、死者の中でも偉大な存在として扱われているアキレウスを称える。

ところが、アキレウスの答えは意外なものだった。

死者を支配するくらいなら、生きて貧しい人間に仕える方がよい。

そのような趣旨の言葉を語るのである。

少なくとも『オデュッセイア』に描かれた冥界は、誰もが幸福に暮らす楽園ではない。

そこには、かつての英雄もいる。

王もいる。

普通の人々もいる。

しかし彼らは皆、肉体を失った「影」として存在している。

死後も存在は続く。

だが、それは生きていることの延長ではない。

この死後世界の描き方も、古代ギリシャの死者観を考えるうえで興味深い。

では、古代ギリシャにも「幽霊」はいたのか?

ここまで見てくると、この問いには少し慎重に答える必要がありそうだ。

『オデュッセイア』には、現代の私たちが「幽霊」と呼びたくなる存在が確かに登場する。

死者は死後も存在する。

姿を現すことがある。

生者と言葉を交わすこともある。

一方で、『オデュッセイア』の死者の多くは、基本的には死者の世界にいる存在である。

夜の家に突然現れて人を驚かせる、いわゆる「幽霊屋敷」の幽霊とは少し違う。

しかし、古代ギリシャの死者観は『オデュッセイア』だけで終わらない。

後の時代になると、正しく葬られなかった者、若くして死んだ者、暴力的に殺された者などが、生者に働きかける「落ち着かない死者」として語られていく。

死者を呼び出す儀礼や、危険な死者を鎮めるための行為も登場する。

その意味では、

古代ギリシャにも「幽霊」と呼べる存在はいた。

ただし、それを現代の幽霊とまったく同じものとして捉えるのではなく、古代ギリシャ独自の死後世界や葬送、宗教観の中で考える必要がある。

「死者になる」ためには、死ぬだけでは足りなかった?

今回調べていて、とくに気になったのがエルペノールだった。

彼はすでに死んでいる。

psychēも冥界へ到達している。

それでもオデュッセウスに、自分を葬ってほしいと頼む。

なぜだろう。

古代ギリシャでは、死者を葬ることが非常に重要だった。

死んだ人間を弔い、墓へ送り、死者としての場所を与える。

そう考えると、「死」は一瞬の出来事ではなかったのかもしれない。

身体が死ぬ。

葬送が行われる。

死者として送り出される。

そして生者の世界から死者の世界へ移っていく。

この過程が正常に完了して、初めて人は「死者になる」。

もしそうだとすれば、埋葬されない者や、突然命を奪われた者が「落ち着かない死者」になりやすいという考え方も理解しやすくなる。

問題なのは、死者が存在することそのものではない。

死者が、本来いるべき場所へ行けないこと。

そこから、怪異が始まる。

この構造は、前回調べた古代ローマの幽霊屋敷の話ともよく似ている。

古代ギリシャの幽霊は、日本の幽霊と似ている?

ここまで調べていると、日本の幽霊や怨霊についても考えたくなる。

非業の死。

弔われない死者。

生者の世界に残る存在。

死者を正しく弔うことで、生者と死者の秩序を取り戻す。

確かに、似ているところはある。

しかし、古代ギリシャと日本の幽霊をそのまま同じものとして扱うことはできない。

古代ギリシャにはハデスやペルセポネが支配する死後世界があり、psychēという考え方がある。

日本にも、黄泉、祖霊、怨霊、仏教的な死後世界など、さまざまな死者観が重なっている。

背景となる文化や宗教は大きく異なる。

それでも、遠く離れた文化の中で、

「なぜ死者は戻ってくるのか」

「死者をどこへ送ればよいのか」

「生者と死者の境界はどこにあるのか」

という似た問いが生まれていることは、とても面白い。

おわりに|古代ギリシャの死者は「影」だった

『オデュッセイア』には、現代の私たちが「幽霊」と呼びたくなる死者たちが登場する。

血のもとへ集まってくる死者。

埋葬を求めるエルペノール。

死後も予言を語るテイレシアス。

そして、三度抱きしめようとしても腕をすり抜けてしまう母アンティクレイア。

彼らは完全に消えてはいない。

しかし、生前の人間そのものでもない。

肉体を失い、死者の世界に存在する「影」のようなものになっている。

そう考えると、古代ギリシャの「幽霊」は、

この世界から去ったけれど、完全には失われていない死者の影

と表現すると近いのかもしれない。

そして、エルペノールの存在はもう一つの問いを残している。

なぜ、正しく葬られなかった死者は特別なのか。

なぜ、若くして死んだ者や暴力的に命を奪われた者は、生者の世界へ戻ってくると考えられたのか。

『オデュッセイア』からさらに先へ進むと、古代ギリシャには「落ち着かない死者」と呼びたくなる存在が数多く見えてくる。

このあたりは、また改めて調べてみたい。

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参考文献・参考資料

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