古代中国にも幽霊はいたのか?|「鬼」と祖先のあいだ

「鬼」と聞くと、どんな姿を思い浮かべるでしょうか。

角が生え、牙を持ち、金棒を振り回す怪物。日本では、そんなイメージが一般的かもしれません。

しかし、古代中国の「鬼(guǐ)」は、私たちが想像する「鬼」とはかなり違います。古代中国の文献では、鬼はしばしば死者の霊と結びつく言葉として使われていました。戦国時代の思想家・墨子も、「人が死んで鬼となったもの」に言及しています。

では、古代中国では人が死ねば、みな「鬼」になったのでしょうか。

一方で、中国には古くから祖先を祀る文化があります。亡くなった父母や祖先へ食物や酒を供え、その力を頼る。つまり同じ死者でも、人々から恐れられる「鬼」になる者もいれば、家族から祀られる「祖先」になる者もいました。

その違いは、どこにあったのでしょうか。

今回は古代中国に残された幽霊譚や祖先祭祀を手がかりに、「鬼」と「祖先」のあいだにあった死者の世界を見ていきます。

古代中国の「鬼」は、日本の鬼とは違う

まず、「鬼」という言葉から見てみます。

現代日本語の「鬼」は、人間とは異なる怪物を指すことが多い言葉です。しかし古代中国の鬼は、もっと広く、人が死んだあとに存在する霊と結びついていました。

古代中国の幽霊研究をまとめたMu-Chou Pooの『Ghosts and Religious Life in Early China』でも、古代文献に登場するgui(鬼)は、死者や目に見えない霊的存在を考えるうえで中心的な言葉として扱われています。また、「鬼神」のように神と並べて使われる場合もあり、鬼という言葉が常に邪悪な存在だけを意味したわけではありません。

つまり、古代中国で「鬼がいる」と言うとき、それは角の生えた怪物がいるという話ではありません。

死んだ人間が、死後も何らかの形で存在している。

まずは、そこから考える必要があります。

死者は「祖先」として祀られた

古代中国では非常に早い時期から、亡くなった祖先を祀ることが社会の中で重要な位置を占めていました。

とくに殷(商)王朝では、亡くなった王族の祖先が、現在を生きる王や王族に影響を及ぼす存在として扱われています。王たちは亀の甲羅や牛の骨を用いた占いを行い、天候、戦争、狩猟、病気、夢などについて祖先の霊へ問いかけました。甲骨文字が残る甲骨は、祖先や神々とのコミュニケーションに使われた痕跡でもあります。

祖先には食物や酒も供えられました。殷・周時代の青銅器には、日常の食器とは異なる祭祀用の器があり、祖先へ食物や酒を捧げる儀礼に使われていました。

ここだけを見ると、祖先は家族を守ってくれる優しい存在のようにも思えます。

しかし、実際はもう少し複雑です。

祖先は、守ってくれるだけではなかった

殷代の甲骨文では、病気や災いについて祖先が関係しているのではないかと占う例も確認されています。

祖先は、子孫を守ることのできる存在である一方、適切に扱われなければ病気などの問題に関係すると考えられることもありました。古代中国の祖先は、単純な「守護霊」というより、力を持っているため、正しい関係を保つ必要のある死者だったと考えた方が近そうです。

この点は、これまで見てきた古代メソポタミアの死者とも少し似ています。

重要なのは、死者が善い存在か、悪い存在かという単純な区別ではありません。

生きている者と死者との関係が、きちんと保たれているかどうか。それが重要だったのではないでしょうか。

そして、このことを非常に分かりやすく示す幽霊譚が、古代中国に残されています。

「伯有が来た」――古代中国に残る幽霊譚

『春秋左氏伝』には、春秋時代の鄭という国で起きた、かなり印象的な話が記されています。

登場するのは、伯有(はくゆう。本名・良霄)という人物です。

伯有は鄭の有力者でしたが、政治的な争いの中で殺されます。

その後、鄭の人々の間で、

「伯有が来た」

という噂が広がります。

人々は恐れ、どこへ逃げればよいかも分からないほどの騒ぎになったと『左伝』は記しています。

さらに、ある人物が夢の中で伯有を見ます。伯有は武装した姿で現れ、「壬子の日に帯を殺す。翌年の壬寅の日には段を殺す」という趣旨の予言をしました。

やがて、その日が来ます。

駟帯という人物が亡くなり、翌年、予告された日に公孫段も亡くなりました。

鄭の人々は、ますます伯有の鬼を恐れるようになります。

現代の感覚から見ても、かなり分かりやすい「幽霊話」です。

殺された人物が死後に戻ってくる。夢に現れる。復讐を予告する。そして、その予告通りに人が死ぬ。

しかし、この話で特に面白いのは、幽霊の出現そのものではありません。

伯有の幽霊を、どうやって鎮めたのか。

そこに古代中国の死者観がよく表れています。

「鬼に帰るところがあれば、厲にはならない」

伯有の幽霊騒ぎに対処したのが、鄭の政治家・子産でした。

子産は、伯有の息子である良止らを取り立て、死者を祭祀できる系譜を整えます。すると、伯有をめぐる騒ぎは収まったと『左伝』は記します。

なぜ、そのようなことをしたのか。

理由を聞かれた子産は、こう答えています。

「鬼有所帰、乃不為厲。」

おおよその意味は、

「鬼には帰るところがあれば、人に害をなす厲とはならない」

というものです。

この言葉は、今回の記事を考えるうえで非常に重要です。

子産がしたのは、伯有の幽霊を武器や呪術で「退治する」ことではありませんでした。

伯有を祭ることのできる者を置く。死者に、死者としての場所を与える。

つまり、

鬼に「帰るところ」を作った。

その結果、危険な存在ではなくなったと説明されています。

ここには、「幽霊とは何か」についての古代中国なりの答えが見えてきます。

「祖先」と「危険な鬼」は何が違ったのか

伯有の話を手がかりにすると、「祖先」と「危険な鬼」の境界が少し見えてきます。

亡くなった人に子孫がいる。死者の名前が覚えられている。祭祀を受ける。一族の中に死者としての場所がある。

そうすれば、その人物は祖先として生者との関係を続けることができます。

一方、伯有のように非業の死を遂げ、生者との関係がうまく整理されていない死者は、人々に恐怖を与える「厲」として現れることがある。

もちろん、古代中国のすべての死者を「祀られれば祖先、祀られなければ幽霊」と単純に二分することはできません。時代や地域、身分によって死者観にはさまざまな違いがありました。

それでも、伯有の話からは一つの構図が見えてきます。

生者との関係の中に居場所を持つ死者。

そして、

帰る場所を失った死者。

「祖先」と「幽霊」は、まったく異なる種類の存在ではなく、同じ「死者」が置かれた状態の違いとして捉えることもできそうです。

人は死ぬと何が残るのか――「魂」と「魄」

伯有の話には、もう一つ興味深い部分があります。

後に子産は、「伯有は死後、本当に鬼になることができたのか」と尋ねられます。

子産は「できる」と答え、人間について説明します。

そこで登場するのが、魂(こん)と魄(はく)です。

『左伝』には、

「人生始化曰魄、既生魄、陽曰魂」

という言葉があります。

人の生命や精神的な働きを説明する概念として、魂と魄が語られているのです。

「魂魄」という言葉は、現在の日本語にも残っています。

そのため、魂は死後に天へ昇る精神的な魂、魄は肉体とともに地へ残る魂、と説明されることがあります。

ただし、ここは注意が必要です。

古代中国の魂魄について研究したK. E. Brashierは、漢代の人々が広く一貫して「人間には魂と魄という二つの魂があり、死ぬと別々の場所へ行く」と信じていたという従来の説明を再検討しています。

文献を見ると、魂と魄は生きている人間の身体や精神状態とも深く関係しており、単純な「二つの死後霊魂」として理解することは難しいとされています。

つまり、

魂=天へ行く魂、魄=墓に残る魂

と覚えて終わるよりも、古代中国では「人間を成り立たせているもの」について、魂や魄を含む複数の考えが存在していた、と捉えた方がよさそうです。

古代中国でも「幽霊は本当にいるのか?」が議論されていた

さらに面白いのが、戦国時代の思想家・墨子です。

『墨子』には、その名も「明鬼」という篇があります。

そこで墨子は、「鬼神は本当に存在するのか」という問題をかなり真剣に論じています。

つまり、古代中国の人々すべてが、無条件に幽霊の存在を信じていたわけではありません。

墨子は「鬼神などいない」と主張する人々を批判し、古くから鬼神を見たり、その声を聞いたりしたという証言があることを根拠の一つとして挙げています。

そして墨子が鬼神の存在を重視した理由は、怪談好きだったからではありません。

墨子は、鬼神には「善い者を賞し、暴悪な者を罰する」力があると考えました。人々が「悪いことをすれば鬼神に罰せられる」と信じれば、社会の秩序を保つことにもつながるというのです。

さらに『墨子』では、鬼神の中には天や山川の霊だけでなく、「人が死んで鬼となったもの」もいると述べられています。

ここでは「鬼」が単なる怖い存在ではありません。

死者であり、祭祀の対象であり、ときには人間社会を監視する存在でもあったのです。

「帰る場所のない死者」が怖かったのか

伯有の物語に戻ります。

人々を恐れさせた伯有の鬼に対して、子産は「鬼には帰るところがあれば、厲にはならない」と言いました。

この言葉を考えていると、古代中国で死者にとって重要だったものが見えてきます。

墓がある。子孫がいる。名前が残る。祭祀を受ける。家族や一族の中に、死者としての場所がある。

死後も社会的な関係から完全に切り離されないことが、死者に「帰るところ」を与えていたのかもしれません。

逆に、その関係から外れた死者はどうなるのでしょうか。

後の中国では、祭祀を受ける家族を持たない「孤魂」なども重要な存在になっていきます。ただし、そこには道教や仏教、後世の民間信仰も複雑に重なってくるため、今回は深入りしません。

古代中国の段階で注目したいのは、

死者そのものが危険なのではなく、死者がいるべき場所を失うことが問題になり得た

という点です。

メソポタミアの死者と何が違うのか

前回、古代メソポタミアの死者について調べました。

古代メソポタミアにも幽霊はいたのか?|死者に水を捧げ続けた人々

古代メソポタミアでは、死者へ食物や水を供え続けることが重要でした。供養してくれる家族がいない死者は、死後の世界で苦しい状態に置かれると考えられていました。

古代中国でも、生者と死者の関係を維持することは重要です。ただ、中国の史料を見ていると、そこに「祖先として一族の中に位置づけられること」が強く見えてきます。

これまでの記事を並べてみると、それぞれの違いが少しずつ見えてきます。

古代エジプトでは、死者に手紙を書き、助けを求めた。古代メソポタミアでは、死者に食物と水を届け続けた。そして古代中国では、死者を祖先として祀り、「帰るところ」を与えた。

もちろん、実際の死者観はどの文明もこれほど単純ではありません。

それでも共通しているのは、人が死んでも、生きている人との関係まで完全に消えてしまうわけではなかったということです。

では、古代中国にも「幽霊」はいたのか?

最初の問いに戻ります。

古代中国にも「幽霊」はいたのでしょうか。

答えは、「いた」と言ってよい。ただし、中国の『鬼』は必ずしも怖い怪物ではなかったとなりそうです。

「鬼」は死者の霊と結びつく言葉でした。

死者は祖先として祭祀を受け、生きている子孫と関係を続けることができました。一方で、伯有のように非業の死を遂げ、祭祀や社会的な秩序から外れた死者が、人々に災いをもたらす「厲」として恐れられることもありました。

そう考えると、

祖先と幽霊は、正反対の存在ではなかったのかもしれません。

どちらも「死者」です。

違うのは、その死者が生者との関係の中で、どのような場所を持っているのか。

祖先として祀られる死者と、帰る場所を失った鬼。

古代中国の幽霊を考えるとき、その「あいだ」に注目すると、死者の姿が少し違って見えてきます。

おわりに|死者に「帰る場所」を与える

古代中国に残された伯有の話では、殺された男が鬼となり、人々を恐れさせました。

夢に現れ、復讐を予告し、その予告と重なるように人が死んでいく。

しかし、子産が行ったのは幽霊退治ではありません。

伯有を祀ることのできる者を立て、死者に「帰るところ」を与えました。

そして子産は、

「鬼有所帰、乃不為厲」――鬼には帰るところがあれば、厲にはならない。

と語ります。

この言葉は、古代中国の幽霊を考えるうえで象徴的です。

死者を完全にこの世から消すのではない。死者にも、死者として存在する場所を与える。その場所があることで、生者と死者の秩序が保たれる。

古代ギリシャでは、死者は触れることのできない「影」として描かれました。古代エジプトでは、死者に手紙を書きました。古代メソポタミアでは、死者へ食物と水を届けました。そして古代中国では、死者に「帰る場所」を与えました。

文化も時代も違います。

それでも、人間はずっと、

死んだ人はどこへ行くのか。

その人との関係は、本当に死によって終わるのか。

という問いを考え続けてきたのかもしれません。

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参考文献・参考資料

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