鹿児島県は薩摩と呼ばれる地域で、鎌倉時代から江戸時代まで島津氏が治めていました。幕末に西郷隆盛や大久保利通と共に活躍した島津斉彬や島津久光が有名ですが、私は戦国時代の島津義久、義弘、歳久、家久に特に興味があります。この四兄弟の母親である雪窓院(せっそういん)は、現在の鹿児島県薩摩川内市入来町を治めていた入来院氏の出身です。
雪窓院は、島津義久、義弘、歳久の母として歴史に名を残しています。彼女は島津家の興隆に大きな影響を与え、家族や周囲の歴史に深い足跡を残しました。本記事では、雪窓院の生涯とその影響について詳細に解説します。資料が少なく、出身地である入来でも知られていないことが多い彼女の物語を通じて、雪窓院が果たした重要な役割や島津家の歴史についてさらに深く理解できます。
雪窓院の基本情報
雪窓院は薩摩国入来院の国衆、入来院重聡の娘として生まれました。後に島津家の勢力拡大に尽力した島津貴久と結婚し、島津義久、義弘、歳久の母となります。
雪窓院の呼び名
・雪窓院
・雪窓夫人
・入来院重聡女
・島津貴久後室
・雪窓妙安大姉
雪窓院の年齢
生年月日は不明で、亡くなったのは1544年(天文13年)8月15日です。
雪窓院の家族
入来院家(実家)
・父:入来院第十一代当主の入来院重聡(しげとし)
・兄:入来院代十二代当主の入来院重朝(しげとも)
島津家(嫁ぎ先)
・夫:島津貴久
・子:島津義久、島津義弘、島津歳久
雪窓院の生涯
雪窓院の生涯を時系列で、一部推測も交えて紹介します。
出生から結婚まで
雪窓院は入来院重聡の娘として生まれました。家系図には入来院重聡女と記載されており、当時の名前はわかっていません。後に雪窓院と名前がついたことから、雪が降る寒い時期に生まれたのではないかと推測されます(雪窓院は菩提寺の名前)。
伊作島津家の島津忠良、貴久親子は当時大きな勢力を持っていた入来院氏と婚姻関係を結び、雪窓院は島津貴久のもとへ嫁ぎました。
結婚後から亡くなるまで
伊作城での生活
雪窓院は島津貴久に嫁ぎ、現在の鹿児島県日置市吹上町にある伊作城(亀丸城)に住みました。ここで島津義久、義弘、歳久を生むこととなります。
・MAP:伊作城跡
一宇治城での生活
1536年(天文5年)、島津貴久は西部にある吹上伊作城から、鹿児島制圧に有利な薩摩国の中心である現在の鹿児島県日置市伊集院町の一宇治城へ拠点を移しました。
一宇治城を歩いていると、古い井戸跡が残っています。貴久が入城する以前のものらしく、もしかしたら雪窓院も使っていたかもしれません。
島津歳久は1537年(天文6年)に伊作城で誕生したため、雪窓院は出産のために一度伊作城に戻っていた可能性があります。
1544年(天文13年)8月15日、一宇治城で雪窓院は亡くなりました。この時、義久11歳、義弘9歳、歳久7歳でした。
・MAP:一宇治城址
雪窓院の死後
菩提寺(雪窓院)の建立
雪窓院の菩提寺は鹿児島県日置市伊集院町にある千秋寺雪窓院です。1544年(天文13年)8月15日、一宇治城で亡くなった後、息子3人が母の冥福を祈って建立しました。開山は二珠林大和尚、曹洞宗田布施の常珠寺の末寺で、藩政時代は100石を給されていました。三国名勝図会にも描かれています。
明治維新時の廃仏毀釈により寺は残っていませんが、仁王像の頭部がかろうじて残っています。
島津義久の剃髪
島津義久は、薩摩川内市にある泰平寺で豊臣秀頼に降伏する前に雪窓院に立ち寄り剃髪しました。その時、境内にあった座禅石の上で髪を剃ったのです。その座禅石は今も残っています。
島津義久は島津家の菩提寺の福昌寺ではなく、雪窓院で剃髪した。これは、母である雪窓院を敬愛していたことがうかがえるエピソードではないでしょうか。
母に捧げた和歌
島津義久は母である雪窓院を敬愛しており、天正四年(1574年)8月15日の雪窓院の三十三回忌に和歌を詠みました。
「月にちるははその秋はほともなく 雪に向はんまと(窓)の山嵐」 島津義久
雪窓院の雪と窓を用いて詠われた歌は「入来村史」に記載されています。雪と窓にかけているのだろうが、意味はわからないので、ご存じの方は教えてください。
剃髪や和歌のエピソードには、雪窓院に対する義久の思いが込められています。
・MAP:雪窓院跡
雪窓院の知名度向上の取り組み
雪窓院が薩摩川内市入来町出身ということだが、そもそも雪窓院の知名度が低い。
雪窓院の知名度向上と、薩摩川内市入来町の地域おこしということでお菓子を作り、雪窓院のPRをしている。
①プリンセス入来「雪姫」
地元を元気にすることをテーマに、入来で活動している「チーム入来おこし」が作成したチーズケーキです。食べやすくて美味しいと評判です。
②雪姫ロール
薩摩川内市にあるお菓子屋「かしの樹」で販売されています。オーナーが雪窓院が好きで、何かPRできないかと思い作成したものです。
③雪窓院
「かしの樹」で150円で販売予定(4月20日予定)。かしの樹と地域おこし協力隊の私と共同で開発したお菓子で、雪窓院の名の雪から、雪をイメージするかるかんと入来の名物である金柑を使用しています。
雪窓院を食べにぜひ!薩摩川内市へ!
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雪窓院のイメージ
雪窓院について描かれたものは残っていませんが、美人だったと思われます。。現代ではゲームのキャラクターとして描かれ、そのどれも美人に描かれています。
①雪窓夫人(信長の野望201X)
②雪窓夫人(鬼武者Soul)
③雪窓院(戦国IXA)
④AIで私が作成した雪窓院
ChatGPTのDALL-Eで作成した雪窓院。入来特産の金柑も一緒に描いてもらった。
まとめ
雪窓院については記録がほとんど残っていないため、わからないことが多いです。しかし、雪窓院は島津貴久の薩摩統一のきっかけとなり、島津義久、義弘、歳久を産み、その後の島津家の77万石の礎になった女性と言ってもよいのではないでしょうか。
これからも地道に調べていこうと思います。何か知っている方がいれば教えてください。
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私の母方の母の先祖らしいです。ちなみに母方の父は、桑御前が先祖です。
二年前に叔父の葬儀があり、鹿児島の加世田に行きました。
その時に親戚に挨拶に行きました、
部屋には、島津のもんが飾ってあり聞いたところ島津義弘産みの親が、私の祖母の母方の祖先らしいです。
ちなみに母の父方の祖先は、島津日新公の側室桑御前と聞いています。
>長島さん
コメントありがとうございます。
雪窓院と桑御前が祖先にあたるとは、、羨ましいです。普通は自分のルーツであるご先祖様がどういった人たちだったのか中々知ることはないので。。
ちなみに、2年前の2018年はちょうど日新公の没後450年でした。
長島です。私は詳しいことは知りませんが、母の弟が家系図を持っています。もう私の祖父母も亡くなりましたので。ただ母の実家のお墓に桑御前が最後倒れた石碑があり、近くには竹田神社もあります。コメントが公開されるので、実家の名前は差し控えますが、その近所の人に聞けばおそらく詳しいことがわかると思います。島津義弘さん達の産みの親についても近所ですよ。
>長島さん
ありがとうございます。
家系図、見てみたいです!以前、竹田神社を訪れたときは麓をぶらり歩いてみました。
私は今鹿児島を離れているので、鹿児島に帰って加世田方面に行く際は聞いてみたいと思います。