【鹿児島】いちき串木野市・串木野麓を歩く

鹿児島県には麓と呼ばれる土地がたくさんある。

島津氏は鶴丸城を本城(内城)とし、各地の山城跡の周辺に麓とよばれる外城を配置した独特の地域行政制度をとっていた。

今回はその麓の一つ、鹿児島県いちき串木野市にある串木野麓について紹介する。

串木野城(亀ヶ城)

串木野城の外曲輪は1125メートルで、城内には6つの拠点と3つの展望所の9つの小丘がある。自然の地形を利用した砦で、小丘間には長短の空堀が小さな山城を複雑化している。当城を主城として、五反田川南岸に浜ヶ城・栫城・坂下城が出城として東西に配置されている。

初代城主は、串木野三郎平忠道(薩摩郡本地頭平忠直の三男)。

串木野氏五代の忠秋は、南北朝合戦で南朝方に味方して、北朝の島津貞久に敗れ、興国3年(1342)頃に同族の知覧に敗走、串木野氏は滅亡となる。それ以降、串木野は島津氏の支配地となる。

また、有名な島津四兄弟の末の弟・島津家久も元亀元年(1570)、串木野の領主をとなり、串木野城の城主であった。家久の息子・島津豊久は串木野で誕生したといわれている。

ちなみに、串木野城は私有地なので、許可なく立入るのは禁止である。

■MAP

地頭仮屋跡

串木野城跡に地頭仮屋跡がある。

現在は案内看板と、明治30年頃串木野城外曲輪の一部に築かれた石垣が残っているのみだ。

安永2年(1773)、鹿児島城下に造士館と演武館を創設され、串木野でも間もなく当地地頭仮屋屋敷に手習い学問所と剣術稽古所を創設された。

明治2年最後の地頭坂木六郎はここに達徳館を設け、新時代の教育の基礎を築いた。これが鹿児島県第三十四郷校となり、串木野小学校へと進展した。

■MAP

南方神社

創建の年代ははっきりしないが、「三国名勝図会」によれば「諏訪上下大明神社」と記載があり、長野県の諏訪神社から勧請したものらしい。

御祭神は建御名方命(タケミナカタノミコト)、八坂刀売命(ヤサカトメノミコト)。

初めは「諏訪神社」とよばれ、いつ頃からかなぜ「南方神社」になったのかはわからないとのこと。

文禄元年(1592)、朝鮮の役に島津義久が肥前名護屋に赴く途中、神社に詣でて順風を祈り、神楽を奏して法楽のために和歌一首を詠まれたといわれている。

月涼み御山おろしにさそわれて つなぎし船の出づるみなと江

■狛犬たち

境内には狛犬たちがいた。

■鉾?

■MAP

旧入来邸

旧入来邸武家屋敷は郷土年寄格で串木野に所在する武家屋敷を代表するもの。

屋敷の二階には隠し部屋があり、西郷隆盛が密会場所として使用したとの言い伝えがある。

武家屋敷に隠し部屋と聞くと、色々表にでてこない歴史もあったんだろうなと妄想してしまう。

また、第二次世界大戦中には軍の施設としても使われ、その際に迷彩柄を施したとのことで、その迷彩柄は今でも残っている。

現在も人が住まわれているので許可なしでの立ち入りは禁止。

大中公の廟

大中公の廟は、元亀元年(1570)に串木野城主となった島津家久が父・島津貴久の御霊を迎えたもの。

島津家久は、良福寺に貴久の位牌を迎え、家久は法要を怠らなかったという。藩政時代、良福寺は、串木野郷の菩提寺であった。

昭和42年3月24日に串木野市の文化財に指定された。その後、南九州西回り自動車道建設工事に伴い移設されたもの。

■MAP

串木野氏の墓

串木野氏の墓といわれている石塔。

串木野氏は薩摩郡本地頭平忠直(薩摩六郎)の子の串木野三郎忠道を初代とした5代に渡って串木野を治めた一族。

明治初年までは、大堂庵の墓地に五輪塔の墓があったといわれているが、第二次世界大戦の頃には見当たらなかったという。

その後の昭和37年の調査で、大堂庵の墓地付近や畑の石垣の間に、五輪塔の各部や破片などが発見される。

現在の串木野氏の墓は、その時に発見された各部を寄せ集めて立てたもの。

■MAP

長谷場純孝生誕の地

長谷場純孝は麓生まれの政治家。

西郷隆盛が鹿児島に下野した後、明治7年に長谷場純孝も警察庁を辞め串木野に戻り私学校に入る。

西南戦争では田原坂の戦いで右足を負傷し串木野に戻り、島平浦警察分署を襲撃し捕らえられ富山監獄に収容される。

出所後は政治家となり、鹿児島県議会や衆議院議員となり、衆議院議長や文部大臣を務める。

長谷場純孝は、鹿児島本線の父ともいわれている。

当時、路線選定で長谷場純孝は経済性を重視し、人口の多い沿岸部の西回り建設を主張した。

しかし当時は日清・日露戦争前夜でロシアのバルチック艦隊の砲撃を恐れた軍部が国防上の理由から内陸部の建設を主張。現在の肥薩線が先に建設される事となる。当時は肥薩線の方を鹿児島本線と言われていたとのこと。

長谷場純孝はその後も西回り鉄道建設に向け猛烈な誘致活動を展開し、明治41年に鹿児島〜川内間の鉄道建設が決まり、串木野駅は大正2年に開業することとなる。

鹿児島本線敷設の功績を讃え、串木野駅前に長谷場純孝の胸像が建てられている。

■MAP

麓の田の神さぁ

麓にある上名交流センターの敷地内に、3体田の神さぁがいる。

珍しい2体の夫婦の田の神さぁ。

■MAP

いちき串木野市総合観光案内所

観光案内所ではMapが置いてあったり、串木野城の城郭符(御城印)や南方神社の御朱印がいただける。

■城郭符

串木野城の城郭符(御城印)。

串木野城は亀ヶ城ともよばれているので、亀のデザインと十字が描かれている。

また、島津豊久が生まれた場所といわれているので、島津豊久生誕之地の文字も。

■御朱印

南方神社の御朱印。

日本遺産の文言と、島津義久の詠んだ歌が書かれている。

■MAP

さいごに

実は僕は旧串木野市生まれだが、当時串木野にいる頃は城があることは知らなかったし、興味も持っていなかった。

県外に出てから地元に興味を持ち、帰省の際に串木野城を見に行ったが、看板があるだけで、周りは住宅街だし歩き回るのも不審者になると思い、それ以上の探索は諦めた。

ここ最近、歴史に興味を持っている人たちの情報発信や、地元の方の整備活動などにより、麓が認知されてきているのでありがたい。

今後に期待だ。

では。

参考文献

・串木野市郷土史編集委員会「串木野郷土史 補遺改訂版」(串木野市教育委員会、1984)

広報 いちき串木野 (2014.1)

・各地の案内看板

いちき串木野麓ぶらり探訪

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ABOUTこの記事をかいた人

「埋もれた歴史を発掘・発信」をテーマに薩摩の地でイベント企画や商品開発、情報発信をしていました。( 山城の観光記念符「城郭符」や、歴史和菓子「雪窓院」を企画など)