【鹿児島】薩摩川内で天孫・瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の足跡たどる

僕が以前住んでいた鹿児島県薩摩川内市には、日本神話に登場する瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)・木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)・海幸彦(ウミサチヒコ)のお墓が存在している。

今回は神々が眠る街・薩摩川内にて、瓊瓊杵尊の足跡について簡単に紹介したい。

1.神話と薩摩川内

瓊瓊杵命は天孫降臨後、最終的に薩摩川内に来ており、この地に祀られていると伝わっている。

①天孫降臨 瓊瓊杵尊、天から地上へ

むかしむかし、高天原というところに、瓊瓊杵尊という神様がいた。

ある時、瓊瓊杵尊のおばあちゃんである天照大神から、地上へのおつかい(地上世界を治めてきなさいと)を頼まれる。

途中、地上までの案内人の猿田彦と出逢い、高千穂の峰に到着する。

これが、世にいう「天孫降臨」だ。

また、高千穂の峰を出て、笠沙宮に一時移り住んだ瓊瓊杵尊は、ここで木花咲耶姫と出逢い結婚し、その後川内の地に移り住んだとされている。

②瓊瓊杵尊、川内へ

笠沙を出発した瓊瓊杵尊の一行は、まず川内川河口の港町の船間島に上陸。ここから周囲を見た瓊瓊杵尊が、「京(宮処)にふさわしい場所」と言ったのが、京泊の名の由来とされている。

また、瓊瓊杵尊はここから月が昇る方向にある山を「月見山」と名付け、これがのちに「月夜山」となり、さらに現在の月屋山になった。

一行はさらに川内川をさかのぼるが、ここで先住民族の抵抗に遭い、川内川右岸の鏡山に三種の神器の一つである鏡(八咫鏡)を奪われないために埋めたとされる。

さらに川内川をさかのぼった一行は、宮里町日吉に一時住んだとされている。ここ以外に高城町宮ケ原や麓、御陵下町屋形原に瓊瓊杵尊が住んだとされる場所(宮居跡)が存在する。

瓊瓊杵尊はその後、川内の地で没し、葬られたとされる場所が現在の宮内町の新田神社北側の可愛山陵である。

★三種の神器とは?

天孫降臨の際に、天照大神が瓊瓊杵命に授けた三種類の神器の鏡と剣と玉で、八咫鏡(ヤタノカガミ)・天叢雲剣(アマノムラクモノツルギ)・八尺瓊勾玉(ヤサカニノマガタマ)のこと。

日本の天皇が古来より受け継いできた三種類の神器(神から受け伝えた宝器)を指す。

2.瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)ゆかりの地

①船間島神社

川内に上陸後、瓊瓊杵尊は船間島にしばらく滞在。その水先案内人をつとめた人が十郎太夫といわれている。

同社棟札に、八幡新田宮末社十郎太夫宮祠廟云々と書かれており、施主はこの十郎太夫の加護により、難を免れたという。

■MAP

②月屋山

川内川河口(湯島町)に高くそびえた山。瓊瓊杵尊はこの山に登って着きを見たので月見山といったが、のちに月夜山、さらに今の月屋山になったと伝えられている。

■MAP

③宮ケ原

高城町妹背城の北隣の岡。ここに瓊瓊杵尊は滞在していたが、飲料水不足のためにこの地を去れれたという。

④京泊

川内川河口の美しい景色を見た瓊瓊杵尊は、この地こそ、宮のいるふさわしき京であるとして京泊と命名下とのこと。

⑤宮里

瓊瓊杵尊はしばらくこの地にいられたといい、その場所が今の若宮八幡跡と言われている。この付近からは石器など多数出土しており、瓊瓊杵尊への飯米を献上した場所とも伝わっている。

⑥鏡野

小倉町にある小山で、通称鏡山。川内川河口から約五キロの地点。

瓊瓊杵尊は川内川河口をさかのぼってこの小倉に至った時、先住民が反抗したので、天照大神の鏡にもしものことがあったらいけないと、この山に鏡を隠したという。

⑦新田神社

神亀山という亀の形をした山の頂きにある薩摩國一之宮の神社。

天津日高彦火瓊瓊杵尊、天照大神、正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊が祀られている。

創建については、はっきりしたことはわかっていない。

新田神社 参道の階段

▼参考鹿児島県薩摩川内市の神社御朱印まとめ~薩摩川内三社詣~

▼Episode:新田神社七不思議の一つ「子抱き狛犬(安産狛犬)」

階段を登りきったところにある狛犬。よく見ると子供を抱いている。

この狛犬は安産にご利益があるといわれており、参拝客は安産を願って狛犬の頭を撫でている。

▼Episode:馬の滑り石?

新田神社の拝殿に向かう階段の途中に、一つだけ不自然に石が浮き出ている。

馬が滑った石だと聞いたが、真偽はいかに・・。

他にも墓石?のようなものが階段に埋め込まれている。

■MAP

⑧可愛山陵(えのさんりょう)

神武天皇以前の三代の神代三山陵の一つである可愛山陵。

瓊瓊杵尊の陵墓として宮内庁が管理している。

厳かな空気が漂う場所。

▼Episode:「天鈿女命とナマコ」

瓊瓊杵尊と一緒に地上に降りてきた天鈿女命(アマノウズメノミコト)はある時、海の生き物を集めてこう聞いた。

「瓊瓊杵尊様にお仕えするか?」

集まった生き物がみな、「仕えます」と返事をする中で、ナマコだけが返事をしなかったので天鈿女命はナマコの口を切り裂いてしまった。

その為、ナマコの口は今でも裂けていると言われる。

▼Episode:神亀様降臨?

可愛山陵に向かう階段に、神亀様が降臨している。

■MAP

⑨端陵(はしのりょう)

瓊瓊杵尊の妻・木花咲耶姫の陵墓。

▼Episode:木花咲耶姫と磐長姫

 瓊瓊杵尊は笠沙で木花咲耶姫と出会い、結婚を申し込む。

木花咲耶姫の父は、木花咲耶姫の姉である磐長姫も一緒に嫁がせるが、瓊瓊杵尊の好みではなかったので、磐長姫を家に返してしまう。

実は姉妹の父が、磐長姫は命が永らえるようにと願いを込めて差し出したものだったが、瓊瓊杵命は磐長姫を実家に返してしまった。その為、瓊瓊杵尊の命は短いものとなってしまい、瓊瓊杵尊の子孫は人間と同じ寿命がきてしまうようになったと伝わる。

▼Episode:怒った木花咲耶姫は炎の中で子供を産む

瓊瓊杵尊と木花咲耶姫の結婚後、すぐに木花咲耶姫が妊娠。子供ができるのが早すぎるということで、瓊瓊杵尊は木花咲耶姫が妊娠している子供は自分の子供ではない、誰の子だ!と疑ってしまう。

木花咲耶姫は怒って、「無事に産まれたらあなたの子ですよ!」と言い、ドアのない建物に入り、自ら火をつけ、息子たちを生むこととなった。

結果、無事子供たちが生まれ、疑惑は晴れることとなる。

すごいエピソードだ・・・。

■MAP

⑩中陵(なかのりょう)

瓊瓊杵尊の長男・火闌降命の陵墓。

火闌降命は日本書紀での名称。古事記では火照命とよばれている。また、「海幸彦」の名でも知られている。

▼Episode:海幸彦と山幸彦

兄の海幸彦は海で釣り(釣り針を使用)を、弟の山幸彦は山で狩猟(弓を使用)をしていました。

ある時、山幸彦はお互いの道具を交換しようといい、海幸彦は断りましたが、最終的に交換することになりました。

山幸彦は海幸彦から借りた釣り針を失くしてしまい、海幸彦は怒ります。

山幸彦は代わりの釣り針を1000個作りましたが、海幸彦は「あの釣り針でないとダメだ!」と許してくれません。

山幸彦が海辺で悲しんでいると、塩椎神と出逢います。釣り針について相談すると、海の中の龍宮城を教えてもらい、亀に連れて行ってもらいます。

龍宮城にいる海神の娘・豊玉姫は山幸彦に一目惚れをします。二人は結婚し、三年間幸せに暮らします。

三年後に、山幸彦はここに来た理由を思い出します。お兄ちゃんの釣り針どうしよう・・と。

海神に相談し、釣り針について知っている者を聞くと、赤鯛の喉に引っかかっていることがわかりました。

海神は釣り針を返し、さらに潮満珠と潮干珠をプレゼントした。釣り針を返す時に呪文を唱えるように言い、兄が高い土地に田を作ったらあなたは低い土地に、兄が低い土地に田を作ったらあなたは高い土地に田を作りなさい。また、兄が攻めてきたら潮満珠でおぼれさせ、苦しんで許しを請うてきたら潮干珠で命を助けなさいと言われる。

地上に戻ってきた山幸彦は海神に言われた通り、釣り針を返し、呪文を唱え、田も言われた通りに作った。

兄の海幸彦の田に水が入らないので、兄は貧しくなってきたので、海幸彦が山幸彦に攻めてきました。山幸彦は潮満珠で海幸彦をおぼれさせ、海幸彦が謝ると、潮干珠で助けてあげた。

海幸彦は山幸彦に謝り、山幸彦の家来になることになります。

海幸彦山幸彦の神話より

■MAP

⑪川合陵(かわいりょう)

瓊瓊杵尊の兄、もしくは息子の天火明命の陵墓。

実は私はまだ行ったことはない。。

■MAP

さいごに

以上、薩摩川内市の瓊瓊杵尊の足跡を辿ってみた。

新田神社や可愛山陵は地元でも知ってる方は多いと思うが、船間島神社や端陵、中陵を知っている人は少ないのではと思う。

以前、神亀山ウォーキングを開催したが、端陵・中陵は初めての方がほとんどだった。

▼参考:令和元年。神亀山ウォーキング

薩摩川内以外にも鹿児島には瓊瓊杵尊にゆかりのある神話の地がある。

瓊瓊杵尊と木花咲耶姫が出会った笠沙や、瓊瓊杵尊の孫で初代神武天皇の父にあたる鸕鶿草葺不合尊(ウガヤフキアエアズノミコト)が眠る鹿屋の吾平山上陵、瓊瓊杵尊の息子である彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)=山幸彦の眠る霧島の高屋山上陵などの神代三山陵がある。

▼参考:神々の代をめぐる旅(1)川内から南へ

興味のある方は、笠沙・薩摩川内・霧島・鹿屋のセットで鹿児島の神話の足跡めぐりを楽しんでほしい。

では。

はんやまつりで私が演じた瓊瓊杵尊。笑

【参考資料】

・薩摩川内市教育委員会「薩摩川内市の古墳と神話」リーフレット(平成30年3月)

・川内郷土史編さん委員会「川内市史 上巻」川内市(昭和50年3月10日)

・川内郷土史編さん委員会「川内市史 下巻」川内市(昭和55年3月20日)

2 件のコメント

  • こんばんは🌆
    はじめまして。私は実家が新田神社に近いため良く小学生から新田神社の階段を登ったり、坂道の植物を取って友達と遊んでました。中学生の地理の時間に課題が出されて、私は神亀山について、祖父や祖母などに聞きに行って、レポートを書いた事を覚えてます。上から見たら亀の形をしていること。人工的に作られた山であることくらいしかわかりません。はっきりした年号すらわかりません。鏡はかなり前に資料館に展示されていたので父と一緒に見にいきました。で、ルーツを知ったのでした。ニニギノミコト様などが来られたルーツ。
    やはり、先住民がいたことはわかりましたが、資料がありませんでした。
    以上、最近、新田神社にも行くことがない生活になりましたが、また、近くなったら、いきたいと思います。
    詳しい情報ありがとうございました。
    ちなみにうちの先祖は江戸時代にうつりすんだようです。では、おやすみなさい。

    • >ゆみさん
      はじめまして、こんばんは。
      コメントありがとうございます!
      ご実家が新田神社近くだと、江戸時代に移り住んだのも含めて、ルーツが気になりますね。
      私は川内市史と市が発行しているリーフレットを読んだくらいの知識ですが、神話のエピソードなので色々と諸説ありそうです。
      詳細は新田神社の方や市の方に聞いてみるのが一番かもしれませんm

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    「埋もれた歴史を発掘・発信」をテーマに薩摩の地でイベント企画や商品開発、情報発信をしていました。( 山城の観光記念符「城郭符」や、歴史和菓子「雪窓院」を企画など)