【鹿児島】薩摩川内市の仏閣・御朱印まとめ

以前、僕が住んでいた鹿児島県薩摩川内市で御朱印を頂ける三つの神社について紹介した。

▼参考:鹿児島県薩摩川内市の神社御朱印まとめ~薩摩川内三社詣~

今回は、薩摩川内で御朱印を頂ける二つのお寺・泰平寺と福昌寺を紹介したい。
※2020年10月現在

①醫王山 泰平寺

泰平寺は薩摩川内市の大小路にあるお寺。

正式名称は「醫王山正智院泰平寺」。

和銅元年(708)、元明天皇の勅願寺として、天下泰平、万民安楽を願って薬師如来を本尊として創設されたと伝えられている。

室町時代の暦応2年(1339)には、足利尊氏の命で「一国一基の塔婆」が建立され、戦国期の享禄年間(1528〜1531)に、宥海法印により真言宗大乗院の末寺として再建開山された。

地元では戦国時代の豊臣秀吉と島津義久との和睦の地として知られている寺だ。

三国名勝図会にも記載がある。

三国名勝図会 巻之十三

▼和睦とは?

全国統一をめざした豊臣秀吉が、天正15年(1587)に大軍を率いてさつまに侵攻した折、大小路の泰平寺に本営を構えた。

日向・根白坂の合戦で大敗した島津軍は形勢不利となり、降伏を決意した当主・島津義久は頭を剃って僧体となり、名を「龍伯」と改めて秀吉と対面し和議を結んだ。

そのため、泰平寺は和睦の地として知られている。

・和睦像

隣接する公園には、未来へ語る歴史像として「秀吉・義久の和睦」像がある。

この像は21世紀歴史のまちづくり事業の一環として制作したものらしい。

作者は市役所の方。クオリティが高い。

・和睦石

和睦石は、当時の泰平寺の境内にあった石を並べて和睦の記念としたものと伝わるもの。

・宥印法印の墓

豊臣軍の本営となったのが泰平寺で、その時の住職が宥印法印という人物。

宥印法印は、豊臣軍の使者が泰平寺の明け渡しを要求したところ、「住職は寺と運命を共にするもの。一歩たりとも引く気はない。」と答え、寺の明け渡しを拒否した。

これを聞いた秀吉が、その態度に感心して、礼をもって再度申し入れたところ、「兵を恐れて逃げたとあれば恥になるから退去する寺を与えよ」と答えた。

宥印法印は宅満寺(現在の中郷一丁目)に移ったが、兵を恐れる様子もなく、毎朝泰平寺に通い読経に努めたので、その姿に皆感心したらしい。

また、宥印法印は、島津義久と豊臣秀吉との和議のあっせんにも努めたので、その功として秀吉から刀や茶器が贈られたとのこと。

豊臣秀吉と島津義久だけではなく、宥印法印もいてこその和睦といえるのでは。

・島津義久の剃髪

島津義久は泰平寺に向かう前に、伊集院にある雪窓院というお寺に立ち寄っている。

そこで剃髪を行い、泰平寺に向かうのだ。

実は雪窓院は島津義久の母親の菩提寺。

秀吉に降伏しに行くのは死をも覚悟していたのかもしれない。

それを考えると、最後に母に会いに行ったと考えてもおかしくない。

★参照:島津義久・義弘・歳久の母「雪窓院」の謎に迫る!

▼その他

①塩大黒天

泰平寺には「塩大黒天の昔話」という民話が伝わっており、実際に塩大黒天の像がある。

昔、川内川という大きな川のほとりに泰平寺という寺がありました。
あるとき、この地方で塩が手に入らず困ったことがありました。
そんなとき、ひとりの小坊主が本堂で掃除をしていると、壇上でどっかりとしてにこやかなに座っている大黒さんが目に入り、『大黒さんはいいね。塩が足りなくて皆が困ってるのに、のんびりと笑って。』『あなたは、福を持ってくるのが仕事でしょう。何とかして下さい!』とぼやきますが、相手は木彫りの大黒さん。
いくら文句を言っても返事をするわけがありません。

ところが2、3日たったある日のこと、大黒さんが本堂から無くなってしまいました。
盗まれた?この大黒さん実は、伝教法師作と伝わる泰平寺の秘宝でもありました。
寺の者総出で村中を探しましたがみつかりません。
川向こうの村々まで探しに行きましたがとうとう見つかりませんでした。

それから数日経ったある日、荷物を満載した船が川内川をさかのぼり、泰平寺の船着場に着きました。
何と山積みの塩ではありませんか。寺の者も村人も大喜びです。
『これはどうしたことか?』と住職が船頭さんにたずねると、『こちらの坊さんが甑島に来られて、寺の近辺で塩が無くて困っているので、一刻も早く集めて欲しいと泣いて頼まれたのじゃ。お代はその坊さんからもらったので、この塩は納めて下さい。』とのこと。

しかし、盗難騒ぎの中、甑島に渡った坊さんなどいません。
すると、船頭さんは、『ほれ、今本堂に入って行かれた坊さんだよ』というので、本堂に駆け込んでみると誰もいません。
ところが、入口から点々と土足の足跡があり、それは壇上に続いておりました。
そして、その先には無くなったはずの大黒さんがいつの間にか戻っていたのです。
そしてその足は泥だらけでした。これを見て、あのときの小坊主は『これは、きっと大黒さんが私の愚痴を聞いて下さったのに違いない。
大黒さん、この前はすみませんでした。そして、沢山の塩を有難うございました。』と言って、手をあわせてあやまるのでした。

このときから、この大黒さんは『塩大黒』と呼ばれるようになりました。

「塩大黒天の昔話」より(出典:鹿児島県観光サイト

②聖徳太子

何故か聖徳太子像がある。

③泣き地蔵

朝鮮出兵の際に連れていかれたと伝えられる泣き地蔵。

真偽は不明・・・。

■御朱印

御朱印のデザインは、「奉拝」、日付、「薬師如来」、「泰平寺」の文字と数種類の印。

■MAP

②玉龍山 福昌寺

福昌寺は薩摩川内市の鳥追町にあるお寺。

元々は鹿児島市にあった歴代島津宇治の菩提寺。

明治の廃仏毀釈により廃寺になった。

その後、同じ場所では再建できず、明治31年にここ薩摩川内の称名寺跡に再建された。

▼福昌寺仁王石像

この仁王石像も鹿児島市池之上町にあったものらしい。

▼不動明王

炎の真っ赤な色が鮮やかな不動明王。

この不動明王をお参りしてから御朱印を頂いた。

▼福昌寺

元々の福昌寺は三国名勝図絵に記載がある。

三国名勝図会 巻之五 福昌寺

三国名勝図会 巻之五 福昌寺 其二

玉龍山福昌寺は、現在の鹿児島市池之上町にあった寺で、歴代島津家の菩提寺として藩政時代には広大な寺であった。

しかし、明治2年(1868)の廃仏毀釈により廃絶し、その後同地に再建が二度図られるも実現せず。

これを受けて京都から鹿児島に派遣された七十二せ住職の宝亀観道大和尚が明治31年(1898)に称名寺跡であった現在地に再建したものが現在の福昌寺になる。

■御朱印

御朱印のデザインは、「奉拝」、日付、「南無不動明王」、「玉龍山福昌寺」の文字と、数種類の印。

■MAP

さいごに

今回は薩摩川内市の御朱印を頂ける二つのお寺を紹介した。

鹿児島なのでどちらのお寺も島津氏が深く関係している。

僕が子供のころは、こんな歴史のある場所が近くにあるとは思っても見なかった。大人になって御朱印を集めたりしていくなかで、帰省ついでに色々調べたら知ることができた。

地域にはもっと多くの神社仏閣などの歴史ある場・人々の信仰の場があるが、どれだけの人が関心を持っているのだろうか。

神社もそうだが、お寺もその街の歴史や信仰などが見えてくる貴重な財産だ。

自分の住んでいる地域については、そういうところも目を向けていきたいし、地域の歴史を語り継ぐ手助けになったらいいなと思う。

御朱印はそのための良いきっかけだ。

ちなみに、以前紹介した薩摩川内三社詣と合わせて、薩摩川内の神社仏閣めぐりバスツアーなるものがあると面白いと思うので企画してほしい。

では。

▼参考:鹿児島県薩摩川内市の神社御朱印まとめ~薩摩川内三社詣~

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ABOUTこの記事をかいた人

「埋もれた歴史を発掘・発信」をテーマに薩摩の地でイベント企画や商品開発、情報発信をしていました。( 山城の観光記念符「城郭符」や、歴史和菓子「雪窓院」を企画など)